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Philip の ちょっといい話

良い子、悪い子、普通の子

 日本から小学六年生の女の子が同級生を学校で殺したというニュースが飛び込んできました。なんとも痛ましい事件で、私は、最初、それを耳にした時、以前の出来事のことを解説しているのだと思ったのですが、そうではなく、少年少女の凶悪な事件が再び繰り返されてしまったのです。

 こういう事件が起こるたびに、事件を起こした少年少女について、いったいどんな子どもなんだろうと、近所の人たちや、友だちのコメントがかならずといってよいほど報道されます。そして、そのコメントは「普段から乱暴でした。」とか「ちょっと変わった子でした。」というよりも、「おとなしい子で、とてもそんなことをするようには見えませんでした。」とか「明るい良い子だったのに…」というものが多いのです。「悪い子」が悪いことをするのでなく、「良い子」や「普通の子」がとんでもないことをする時代になったのですね。

 しかし、「良い子」、「悪い子」、「普通の子」というのは、おとなが勝手につけたレッテルで、成績が良い、親の言いつけを守る、友だちが多いなどというのは、かならずしも「良い子」の尺度にはなりません。どんなに成績が良くても、人間として知らなければならない基本的なこと、「殺してはならない。盗んではならない。偽ってはならない。」ということを知らない子どもが増えています。なぜこうしたことをしてはならないかということが教えられていないのです。また、親の言いつけを表面では守っていても、多くの子どもは親を敬うことが分かっていません。また、友だちが多くいて、つきあいは上手にしていても、本当の友情を知らず、心の中では、常に相手と競争したり、見下したりしていることもあるのです。

 私が小学生の頃は、学級や学年で成績順で名前が貼り出されたりしました。同じクラスの湯川君はいつも私より成績が上でした。その湯川君が数週間入院したことがありました。私は他のクラスメートといっしょにお見舞いに行ったのですが、その時『湯川君が退院して来なければ、ぼくの成績がひとつ上に上がるのに…。』と心の中で思ったのを、今も覚えています。高校生になって聖書を学び、「罪」について教えられた時、このことを思い出したのです。ほんとうの「良い子」は表面では計れません。子どもをみかけの良い子にしようとやっきになるのでなく、子どもの心に、彼らが人として正しく生きていくことができるものをしっかりと与えてあげたいと思います。そして、それができるのは、神によってだけです。聖書に「主を恐れることは知識の初めである。…若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。」(箴言一章七、二十二章六節)とあります。この原点に戻り、子どもたちを「良い子」、「悪い子」、「普通の子」ではなく、「神の子ども」へと導こうではありせんか。

(2004年6月)

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