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Philip の ちょっといい話

希望に生きる

 私は、生みの母を癌でこどものころ亡くしました。そして、私自身も肋膜炎をわずらい、小学校を丸一年休みました。そんな時、私をかわいがってくれた義理の兄が交通事故で急死しました。それ以来、私は「死」を意識するこどもになっていました。中学生になっても病院通いが続き、高校生になっても高熱を出して寝込むことがありました。そんな時、「このまま死んでしまったら、自分はどうなるのだろう」と考えることがしばしばありましたが、そのようなことを考えると、人生を虚しく感じたり、死を恐ろしく思うばかりで、何の答えも得られませんでした。しかし、聖書に出会い、イエス・キリストが病人を直したばかりか、死人さえ生きかえらせたこと、キリストご自身も十字架で死なれただけではなく、死をうちやぶって甦られたことを知りました。「キリストの復活」─それは、私に「死は終りではない」という希望を与えてくれました。

 私は、イエス・キリストを信じて、死のかなたにある希望を得たのですが、同時に、同じ希望を持って天国に凱旋していった多くの方々に出会いました。牧師という仕事がら、死を迎えようとしている方々にお話をする機会が多くあるのですが、そうした方に、イエス・キリストの十字架、復活、そして天国の希望をお話しをすると、いままで絶望と恐れ、疑いと不安の中にあった人が、イエス・キリストを信じて、その表情が見違えるように、平安と喜びに満たされていくのを見てきました。重病の方を病院にお見舞いに行っても、その方がしっかりしたクリスチャンの場合、私の方がその人の持っている信仰や希望によって励まされるということがしばしばありました。

 そんな中の一人に富樫(とがし)さんという方がおられました。今から三十年以上も前のころですが、彼女はある結核療養所の重症患者の部屋にいました。私はそのころまだ学生で、牧師と一緒に彼女を訪ねたのですが、彼女の身体には様々なチューブがとりつけられていて、話しをするのも大変な状態でした。にもかかわらず、彼女は、「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。」(ぺテロの手紙第一、1:5)と、暗記していた聖書のことばを口にして、天国の希望を語ってくれました。

 この聖書のことばは、「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために天にたくわえられているのです。」(ぺテロの手紙第一、1:3-4)とあることばに続くものです。富樫さんに、そして、多くの方々に与えられた天国の希望は、イエス・キリストの復活に基づいていたのです。キリストの復活を知り、信じる人は、死の淵にあっても、希望に生きることができるのです。

(2003年4月)

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