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Philip の ちょっといい話

「イエスに質問したいこと」

 ドイツのハンブルグで、七十ヵ所の学校の七歳から十七歳の千八百二十三人を対象に「もしイエスが今日ここにおられたら、あなたは何を話したいか、または聞きたいか」という質問をして統計をとりました。その結果は、「なぜあなたは悪魔に問題を引き起こさせるのか」(六八・五%)、「世界にはなぜ金持ちと貧しい人がいるのか」(五三・四%)、「失業者のために何かをしてほしい」(四五・四%)といったものでした。(世界キリスト教情報サービスによる)

 「神が正義のお方であるなら、なぜこの世に悪を許しておられるのか。」これは、いつの時代にも、人々の心の中にある大きな疑問です。これに対するひとつの答えは、もし神が私たちに完璧な正義を求められたら、私たちのうち誰一人として、存在を許されないだろうというです。ある人が「神よ、悪人をすべて滅ぼしてください。」と祈ったら、神が「では、あなたから先に滅ぼそう。」と言われたという話があります。神がこの世の悪を許しておられるのは、神がこの世界と私たちとをあわれんで、それを救おうと忍耐しておられるからなのです。

 「神が愛であるなら、なぜ正しい者が悪によって苦しむのか。」これも、私たちが答えを求めてやまないものです。それに対しては、苦しみによって正しい者は訓練を受けるという答えが用意されています。もし私たちが完全で、この地上も天国のようなところであるなら、私たちの人生には、痛みや苦しみ、悲しみや涙は不必要でしょう。しかし、私たちは利己的で、罪深い存在で、この地上は不完全なところですから、私たちに何の痛みも苦しみもなければ、私たちはとてもわがままで自分勝手な者になっていくことでしょう。人生の痛みや苦しみは、私たちに誤った道に進み行かないようにと呼びかける赤信号の役割をするのです。自覚症状のない病気ほどこわいものがないように、私たちがどんな悪事を積み重ねても大丈夫のままだとしたら、それはもっとこわいことです。聖書は、正しい者の苦しみは神からの試練として与えられているもので、それは神の愛のしるしであるが、どんなに悪事を重ねても大丈夫というのは、むしろ神に見捨てられている証拠であると言っています。

 しかし、こうした説明は、他の人の悪のゆえに苦しめられている人にとっては、完全な答えにはならないと思います。その苦しみは、私たちが理性で納得できれば解決するようなものではないからです。人生の複雑な問題の中では、理論的な「解答」が、かならずしも実際の「解決」にはつながらないのです。神は、この問題について、理性が納得できる「解答」ではなく、実際の「解決」を与えてくださっています。それはイエス・キリストによる解決です。キリストにはなんの罪もありませんでした。キリストは、神のもとから来られたお方だからです。しかし、キリストほど、人々から軽蔑され、苦しめられたお方はありません。一番正しい方が一番ひどく苦しめられたのです。しかし、キリストはその苦しみを全うされることによって、私たちを救う道を開いてくださいました。キリストは、今も苦しむ者と共にいて救いを与えてくださいます。そして、キリストがもう一度この世においでになる時には、この世に完全な正義を回復してくだることでしょう。その希望は、悩み多い人生を生きぬく力となるのです。

 テレビ番組「みえますか愛」でおなじみの榊原 寛牧師は、いつも笑顔をたやさない人ですが、彼にも大きな試練がありました。彼のまだ小さな息子がトラックにはねられ、亡くなったのです。彼は悲しみました。嘆きました。そして、「神様、なぜあなたは、私の息子を取られたのですか。」と神に訴えました。このことに対する直接の答えはありませんでした。しかし、神は静かに彼の心に語りかけられました。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ三・十六)「わたしも、わが子を亡くしたのだよ。」

 人生の不可解な出来事に対してたとえ「解答」を見つけることはできなくても、神の「解決」に身をゆだねることはできるのです。

(2002年6月)

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