神の正義─詩篇第七篇

 詩篇の中には、敵に対する攻撃の言葉を含んだものが数多くあります。それらは「報復」の詩篇などと呼ばれます。「イエスが敵をも愛しなさい。悪をなす者たちに報復してはいけない。」と言われたことと矛盾するように見えますので、こうした詩篇は、いまだ旧約の制限のもとにあり、新約の光から見るなら、一段低い次元のものであると、解釈されることがあります。

 しかし、そうした詩篇を詳しく見てみますなら、それらが決して個人的な報復を求めたものでないことが分かります。詩篇七篇でダビデは、もし彼に不正があるなら、「敵に私を追わせ、追いつかせ、私のいのちを地に踏みにじらせてください。私のたましいをちりの中にとどまらせてください。」(5節)と言っています。彼は、むやみに自分の敵を責めているのでなく、神に正義を訴えているのです。ダビデは「主は諸国の民をさばかれる。…神は正しい審判者」(7、10節)と、神を裁き主とし、その神に祈っているのです。ダビデは確かに自分の敵に対する報復を求めていますが、それを神の怒りにまかせています。もし、ダビデに神への信仰、神への祈りがなかったら、彼は、神の怒りにまかせることができずに、自分の怒りや恨みで敵に向かい、その結果はひどいものになったことでしょう。

 それでも「敵への裁きを祈るのは良くない」と言われる方もあるでしょう。しかし、そうでしょうか。この世には現実に罪があり、悪があります。罪や悪は神の正義やきよさと相いれないものです。善と悪は妥協できない面を持っているのです。「正義は勝つ」などと言われますが、多くの場合、悪は強く、善は弱いのです。正しい者は祈り無しには、神の助け無しには悪に勝てないのです。それに、正しい者が救われるためには、悪い者が裁かれなければならないのです。神の悪への裁きは、神の救いのみさざの一部分であって、正しい神には裁きのない救いはなく、あわれみ深い神には救いのない裁きもないのです。ダビデの「報復の祈り」とも見える祈りも、その実際は、正しい者たちの救いを求める祈りなのです。