主は与え、主は取られる

ヨブ記1:20-22

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1:20 このとき、ヨブは立ち上がって上着を引き裂き、頭を剃り、地にひれ伏して礼拝し、
1:21 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
1:22 ヨブはこれらすべてのことにおいても、罪に陥ることなく、神に対して愚痴をこぼすようなことはしなかった。

 「主は与え、主は取られる。」ヨブ記を読んだことのない人でも、この言葉はどこかで聞いて知っていると思います。この言葉を語ったヨブは「ウツ」という地方で一番の富豪で、有力な人物でした。「ウツの地」はガリラヤ湖の北東、今日のシリアのどこかにあったと思われます。また、ヨブは、おそらく、アブラハムと同じ、紀元前2000年ころの人で、そこのころ、その地方には、まことの神を知る人々が多くいました。ヨブはその中でも敬虔な人でした。「この人は誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた」(1節)との言葉がそれを表しています。

 一、ヨブの祝福

 ヨブは、その信仰と敬虔のゆえに、神から大きな祝福を受けていました。7人の息子、3人の娘、7000匹の羊、3000頭のらくだ、500くびきの牛、500頭の雌ろばと、それらを管理する多くのしもべたちを持っていました(2-3節)。聖書が家畜の数まで挙げて具体的に書いているのは、ヨブに対する神の祝福がどんなに大きかったかを示すためです。

 多くの場合、人は多くの財産を持つとそれに頼って神を忘れます。十分なものを持っているのに、もっと欲しいと願って、人のものまで奪おうとします。しかし、ヨブはそういう人ではありませんでした。自分が持っているものは、神から預かっているもの、本来は神のものであると信じていました。

 少し話がかわりますが、長い夏休みが終わり、学校が始まる前、学校で使うもの(スクールサプライ)にセールスタックスがかからないウィークエンドがあります。テキサスでは、今年(2025年)は、8月8〜10日です。学校や学年によっては、鉛筆やクレヨンの一本一本に名前を書くように指示されることがあり、これが面倒なのですが、ノートブックなどは簡単です。には、“Property of ________” などと書かれた欄があり、そこに子どもの名前を書けばいいだけです。「だれそれの所有物」というわけです。「プロパティ」というと、たいていの人は家や土地のこと思いうかべるでしょうが、ローンが残っている間は、まだ自分だけの「所有物」ではありません。モーゲージ会社のものでもあるのです。けれどもローンを払い終わると、自分のプロパティになり、プロパティ・タックスの請求が自分に届くようになります。「私のプロパティ」――とても魅力的な言葉ですが、神を信じる者は、すべてのものの本来の所有者は神であり、私たちは世にいる間、それを神から借り受け、管理を任されている管理者(スチュワード、スチュワーデス)であることを覚えていなければなりません。ヨブはそのことを常に心に覚えていました。それで、莫大な財産を持つようになったときも、「自分が得た」とは言わないで、「主は与え」と言ったのです。詩篇24:1に「地とそこに満ちているもの/世界とその中に住んでいるもの/それは主のもの」とあるように、すべては「主のもの」ですと告白したのです。

 二、ヨブの試練

 神から大きな祝福をいただき、あらゆるものに満たされていたヨブでしたが、そのヨブに大きな災難が降りかかりました。ある日突然、ヨブのしもべの一人がヨブのところに走ってきて、「シェバ人が襲ってきて、牛とろばを奪っていきました。他のしもべたちも殺されました」と告げました。このしもべがまだ話し終わらないうちに、二人目のしもべが駆け込んできて、「天から火が降ってきて、羊が焼き殺され、他のしもべたちも死にました」と告げました。この二人目のしもべが話し終わらないうちに、三人目のしもべがやってきて「カルデア人がらくだをすべて奪い、他のしもべたちもみな殺されました」と告げました。この三人目のしもべが話し終わらないうちに、四人目のしもべがやってきて「息子さんと娘さんが集まっていたとき、大風で家が倒れ、みな家の下敷になって亡くなりました」と伝えました。一日のうちに、いや、一瞬のうちに、ヨブは財産のすべてだけでなく、息子たちや娘たちさえも失いました。大富豪であったヨブは、ほぼ無一物になり、残されたのは奥さんと、災難から逃れて、それをヨブに伝えた4人のしもべだけとなったのです。

 私たちも、さまざまな災難に遭いますが、ヨブのように財産のすべてを一つ残らず失い、また、子どもたちのすべてを一人残らず亡くしてしまう、しかも、それが同時に起こるようなことはめったにあるものではありません。ヨブが、それまで、あまりにも豊かで、恵まれていただけに、その落差は本当に大きなものだったでしょう。もし、私たちに同じような苦しみがやってきたら、どうするでしょうか。自分の身にふりかかった災いを嘆き、悲しみ、「どうしてこんなことになったのだ」と言って、あらゆる原因を探し出そうとするでしょう。そのことで悔やんだり、人を責めたりするでしょう。また、「神さま、あなたを信じてきたのに、どうしてこんなことが起こったのですか」と言って、神を恨んだりするかもしれません。けれども、ヨブは言いました。「主は与え、主は取られる。」

 主が祝福してくださったとき、「主は与えられた」と言うのは、そんなに難しいことではありません。けれども、その祝福が取り除かれたとき、「主は取られた」と言うのは簡単なことではありません。ヨブがこれほどのとんでもない災いに遭いながら、心から、そう言うことができたのは、ヨブが並外れて強い精神力を持っていたから、あるいは、悟りの境地に到達していたからでしょうか。そうではありません。ヨブ記を続けて読んでいくと分かりますが、ヨブもまた自分の境遇を嘆き、友人たちに怒りをぶっつけ、神に対してもつぶやいています。ヨブは、たしかに、敬虔な信仰者でしたが、決して「スパー・ビリーバー」ではありませんでした。けれども、ヨブが支えられ、神に受け入れられたのは、彼の「信仰深さ」ではなく、彼の信仰のあり方、その信仰が向かっていく方向が正しいものだったからです。その信仰が、ヨブに、「主は与え」だけでなく「主は取られる」と言わせたのです。

 三、ヨブの信仰

 では、ヨブに「主は与え、主は取られる」と言わせた信仰とは、どんな信仰だったのでしょうか。それを知るためには、サタンがヨブを訴えた言葉を見ておく必要があります。神が、「おまえは、わたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない」(8節)と言ってヨブの信仰をほめると、サタンはこう言いました。「ヨブは理由もなく神を恐れているのでしょうか。あなたが、彼の周り、彼の家の周り、そしてすべての財産の周りに、垣を巡らされたのではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地に増え広がっているのです。しかし、手を伸ばして、彼のすべての財産を打ってみてください。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません。」(9-11節)サタンは、ヨブが神を信じているのは、神が彼の家族を祝福し、多くの財産を与えたからであると言いたかったのです。人間が「神を信じる」などといっても、その信仰はうすっぺらなもので、それは、地上での安楽な生活を求めてのこと、「ご利益」のために過ぎないと、ヨブの信仰を非難したのです。

 確かに多くの人は、神の愛や信頼に応えるためではなく、目に見える「ご利益」を得るために神に手をあわせます。とくに日本の宗教は、ほとんどが「ご利益宗教」で、人々は家内安全、無病息災、受験合格、恋愛成就など、目に見える「ご利益」を求めて神社仏閣に詣でるのです。賽銭箱に賽銭を投げ入れると、ご利益が返ってくると考えているのです。人々は、神を、コインを入れると品物が出てくるベンダー・マシンのように、「ご利益」の販売機のようにしているのです。戦後の「新興宗教」と呼ばれるものもまた、ほとんどが、人生の意味や目的、また来世の希望よりも、「現世利益」を強調してきました。

 それは、アメリカでも同じで、信仰を持ったら金持ちになれる、どんな病気も治るという「繁栄の福音」(Prosperity Gospel)を説く人々が現れました。もちろん、信仰によって貧困から救われ、病気が癒やされた例は世界中に数え切れないほどあり、私たちもそうした体験を持っているでしょう。しかし、それは、神がたましいの救いと共に、それに添えて与えてくださるものであり、富や健康自体が救いではありません。もしそうなら、イエスは十字架で死なれる必要はなかったのです。イエスの福音は「罪の赦しの福音」です。「繁栄の福音」は、罪の赦し、悔い改め、心と生活の聖め、神との交わり、他の人への愛を教えることがないのです。

 富を得るために神を信じるのは、本当の信仰ではありません。それは、結局のところ、財産に信頼を置いているのであって、神に信頼しているのではないからです。神を知らない人は、財産を持てば持つほど安心が得られると考えています。しかし、イエスは言われました。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(ルカ12:15)では、人のいのちが財産にあるのでなければ、どこにあるのでしょう。それは神の御手の中にあります。ヨブ自身がこう言っています。「すべての生き物のいのちと、すべての肉なる人の息は、その御手のうちにある。」(ヨブ記12:10)神の力強い御手、愛の御手に私たちは信頼します。

 ヨブが、大きな苦しみのために感情が混乱し、友人たちとの論争で言わなくてもよいことまで言ってしまったとしても、彼の信仰は神ご自身に向かっていました。サタンは、「しかし、手を伸ばして、彼のすべての財産を打ってみてください。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません」(11節)と言いましたが、ヨブは神を呪うどころか、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言って神を賛美しています。ヨブは、自分の信仰が「ご利益信仰」ではないことを証明し、神に栄光をお返ししたのです。

 私たちの人生で、神が与えてくださったものと、取り去られたもののどちらが多かったでしょうか。与えてくださった恵みや祝福のほうが、何かを取りさられた試練よりも、はるかに多かったのではありませんか。与えられたものが神の愛から出たものであるなら、神がその一部を、ほんの少しを取り去られることもまた、愛の神のなさることです。与えられるときも、取り去られるときも、神に信頼しましょう。ヨブのように、誠実な心で、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言うことができる信仰を持つお互いでありたいと、心から願います。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちは、困難や苦しみがあなたからの試練であることを知りながらも、そのことで、あなたへの信仰がゆらいでしまうことがあります。そんなときも、あなたが私たちのいのちをその手で支え、私たちの人生にみこころを成し遂げてくださることを信じて、あなたに頼ることができますように。あなたの助けと導きを信じて、主イエスのお名前で祈ります。

7/6/2025