みことばと祈り

ヨハネ15:7-8

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15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。
15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。

 一、ぶどうの枝としての私

 イエスは、「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」と言われました。この言葉は、いくつもの大切なことを教えています。

 第一に、イエスを信じる者は、「わたし―あなた」という神との人格の関係に導き入れられていることです。イエスは、私たちに「わたしは…である」と言われ、ご自身を示されただけでなく、私たちに「あなた」と呼びかけて、私たちが神にとってどんな存在であるか、どんなに大切な者であるかを教えてくださったのです。詩篇50:10-12で神は、「森のすべての獣はわたしのもの。/千の丘の家畜らも。…/世界とそれに満ちるものはわたしのものだ」と言っておられます。確かに、神が造られたすべてのものは神のものです。人間もまた神が造られたもので、神のものです。しかし、人は他の被造物とは違います。人は神との人格の関係を持つ者として造られました。詩篇で神が「わたしのもの」と言われているのは、神の被造物に対する主権を意味しています。しかし、イザヤ43:1で、「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの」と言っておられるときの「わたしのもの」は、神が、私たちとの人格の関係を願われ、私たちを罪から贖い出し、私たちとの愛の関係を結んでくださったことを言っているのです。

 第二に、これは、イエスとイエスを信じる者とが、「いのち」のつながりを持っていることを教えています。今年のメモリアルデーの翌日、朝6時にサイレンが鳴り、スマートフォンに「激しい雷雨と突風が発生、建物に避難せよ」とのメッセージが届きました。ものすごい風が吹き、大きな風の音が聞こえました。それが収まってから外を見ると、バックヤードの木の大きな枝が折れて、家の壁に倒れかかっていました。午後、少し雨が上がったので、片付けにとりかかりましたが、高いところで折れてぶら下がっている枝はツリーサービスの人が来るまでそのままにするしかありませんでした。風のために折れ、幹から切り離された枝の葉は黄色くなって枯れていきました。枝は幹から養分をもらって生きています。そのように、信じる者も、「私が真理であり、道であり、いのちなのです」と言われるイエスの「いのち」によって生かされているのです。多くの人は、自分の力で「生きている」と思っていますが、自分の力で生きている人など誰もいません。すべての人は、神によって生かされているのです。からだの命でさえそうなら、霊の命はなおのことです。私たちが神にあって、神と共に生きるには、イエスがくださる霊の「いのち」が必要です。イエスが「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです」(5節)と言われたのは本当です。

 第三に、「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」との言葉は、私たちに生きる目的を教えています。ぶどうの枝は、他の木の枝と違ってとても細く、材木にはなりませんし、燃料にもなりません。「たきつけ」に使われるのが関の山です。ですから、実を結ばない枝についてイエスは、「わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます」(6節)と言われたのです。ぶどうの枝は実を結ぶためにあります。そのように、私たちの人生の目的も神のために実を結ぶことにあるのです。

 二、神の刈り込み

 では、私たちがぶどうの木であるイエスとつながり、イエスのいのちによって生かされ、実を結ぶためには、どうしたらよいのでしょうか。2節でイエスは、「わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き…」と言われました。「ドキッ」とする言葉です。「私など、真っ先に取り除かれてしまわないだろうか」と心配になります。しかし、知ってください。私たちとイエスとのつながりは、私たちが自分の力で作り出したものではありません。枝が幹から生まれ出るように、私たちは、ぶどうの木であるイエスによって、イエスから生み出された者なのです。このつながりを支えるものは、イエスのいのちです。私たちの信仰にはアップ・ダウンがありますが、それでイエスから離れたり、再び結びついたりするわけではありません。イエスは私たちのどんな小さな信仰ともつながっていてくださいます。神の「真実」も、人間の「信仰」も新約聖書では同じ言葉「ピスティス」が使われています。神の「ピスティス」(真実)は、私たちの「ピスティス」(信仰)よりも大きいのです。信仰とは、神の真実に憩うことなのです。

 そして、2節の後半に、「実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます」とある通り、神は、私たちがもっと多くの実を結ぶために「刈り込み」をなさいます。この「刈り込み」とは、神がお与えになる「試練」や「訓練」のことです。「刈り込み」のことを「剪定」といいますが、ぶどうは剪定すればするほど良い実を多く成らせると言われています。大きな試練に遭って苦しむとき、「神は、もう、私を愛されなくなったのか」と思うことがあるかもしれませんが、実際は逆なのです。聖書には、「主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられる」(ヘブル12:6)とあって、試練や訓練は神の愛から出たものです。

 けれども、そうと分かっていても、「神さま、愛のゆえであっても、この試練は、私には重すぎます。どうぞ取り除けてください」と言いたくなることがあります。そんなとき、神は決まって、こう言われるのです。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(コリント第一10:13)ここに「人の知らない試練」とありますが、この「人」は、イエスのことです。人となられ、あらゆる試練を受けられたイエスを指しています。イエスは生まれる前も生まれてからも命の危険にさらされました。貧しく育ち、人々から軽蔑され、反対を受けました。そして、自分の弟子からも裏切られ、見捨てられ、何の罪もないのに、神を冒瀆した者として死を宣告され、ローマに謀反を企てた者として、鞭打たれ、十字架にかけられたのです。いったい、私たちが受ける苦しみで、イエスが受けられなかったものがあるでしょうか。また、イエスが受けた苦しみよりも大きなものがあるでしょうか。イエスは、私たちが苦しむであろう、すべての苦しみを知っておられます。神は決して、私たちがだめになってしまうような苦しみをお与えになりません。私たちが耐えられそうもない苦しみは、イエスが、すでにそれをその身に引き受け、肩代わりしてくださっているからです。

 イザヤ53:1-3は、そのことをこう預言して、こう言っています。「私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」ここに「ひこばえ」とあるのは、大きな木が切り倒されたあと、切り株から生え出る小さな枝のことです。神は、ダビデの子孫に永遠の王座を与えると約束され、その子孫こそイエスだったのですが、イエスは神の御子であるのに、ダビデのような栄光をお持ちになりませんでした。ダビデが大きな木だとしたら、「ひこばえ」のようなものでした。しかも、その「ひこばえ」すらも、折られ、切られ、痛めつけられたのです。しかし、そこには神のご計画がありました。有名なワインの原材料になるぶどう畑のぶどうの木は、かわいそうなほど、切り詰められますが、ぶどうの木であるイエスもそうされました。イエスの復活とその栄光、救いの力は、イエスが受けられた大きな試練、十字架の苦しみから生まれたものです。神は、イエスの十字架から救いの恵みを実らせてくださったように、私たちを試練によって鍛え、実を結ぶ者にしてくださるのです。ヘブル12:11にこうある通りです。「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」

 三、みことばと祈り

 きょうの箇所、7節では、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら…」と言われています。5節では「人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら…」とありましたが、そこでの「わたし」が、7節では「わたしのことば」と入れ替わっています。イエスご自身と、イエスのことばとが同じように扱われています。もし、私たちのうちにみことばがとどまっているなら、それは、イエスが私たちにとどまっておられることと同じなのです。

 ヨハネ8:31-32にこうあります。「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』」イエスのことばを聞いて、それを素直に受け入れ、心にとどめた人たちはイエスを信じ従う者となりました。ところが、同じようにみことばを聞きながら、それを表面的にしか受け止めず、一時的にはイエスに付き従っても、そのうちみことばを忘れ、イエスから離れていく人たちもありました。その人たちは、自分では「イエスを信じた。イエスの弟子になった」と言っていても、ほんとうには信じてはいなかったのです。イエスはそのような人たちに、「せっかくみことばに触れたのだから、それを心にとどめていなさい。そこから、真理に至りなさい。そして、罪から救われて自由になりなさい」と言われたのです。

 まことの信仰者は、いつの時代も、神がみことばを通して働かれること、そして、信仰とは、みことばを堅く信じ、それに信頼することであることを知っていました。詩篇1篇は「主のおしえを喜びとし/昼も夜も そのおしえを口ずさむ人」こそ幸いであると言い、詩篇119篇は、その176節のすべてがみことばへの信頼を歌っています。イエスは、自分のしもべの癒やしを願ったローマの百人隊長の信仰を、どのユダヤ人にも勝って素晴らしいとお褒めになりました。それは、百人隊長がみことばの力を知り、信じたからでした。百人隊長はこう言いました。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。」(マタイ8:8)

 私たちも、同じようにみことばの力を知り、信じ、それを心にとどめましょう。それによって私たちは、イエスが自分のうちにおられ、私たちもイエスのうちにあることが分かるのです。そればかりではありません。イエスは、続いて、「わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます」と言われました。みことばの多くは約束のことばです。みことばの約束を信じて求める祈りに、神は答えてくださるのです。イエスは、「何でも欲しいものを求めなさい」と言われましたが、イエスとイエスのことばを信じる者が心に持つ祈りは、決して、自分勝手な願いではないはずです。それは、「信仰を増してください。主とつながって実を結ぶ者になれますように」との祈りになるに違いありません。それは神が喜ばれる祈りです。そのような祈りが聞かれないはずがありません。そして神は、そのような祈りに答えることによってご自分の栄光を表されるのです。

 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です」との言葉で始まったイエスの教えは、8節の「わたしの父は栄光をお受けになります」との言葉で結ばれています。私たちは自分の力では「神の栄光を表し、神を喜ぶ」という人生の目的を成就することはできません。しかし、私たちがイエスにとどまり、みことばが私たちのうちにとどまっているなら、みことばを信じて祈り求めるなら、イエスのいのちが私たちを生かし、「神の栄光を表し、神を喜ぶ」という人生の目的が、実を結ぶことによって、日々に成就していくのです。

 (祈り)

 父なる神さま、イエスは、私たちが実を結ぶために、試練の中でも、みことばを握りしめ、祈り求めるよう教えてくださいました。この教えを日々実行することができるよう助けてください。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」と言われたイエスのお言葉をしっかりと心に刻むことができますよう、この週の一日一日を導いてください。まことのぶどうの木、イエス・キリストのお名前で祈ります。

9/8/2024