65:17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。
65:18 だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。
65:19 わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない。
聖書は66巻、イザヤ書も66章。イザヤ書の1章から39章は、旧約の39巻のメッセージを物語り、イザヤ書の40章から66章は新約の27巻のメッセージを伝えています。新約の最後の書物はヨハネの黙示録で、イエス・キリストによる人類の救いの完成を告げていますが、イザヤ書にも、その預言があります。それが、きょうの箇所です。イザヤ65:17-19と黙示録21:1-4を比べてみるとイザヤ書が黙示録に書かれていることをあらかじめ預言していたことがよく分かります。
一、新天新地
最初にイザヤ65:17-18と黙示録21:1を比べてみましょう。イザヤ書には「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ」とあります。黙示録には「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない」とあります。両方とも、「新しい天と新しい地」について書き、天地を造られた神が、それをもう一度、新しく造り直してくださると言っています。
イザヤ40:28が「あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない」と言っているように、イザヤ書には、神が天地の創造者であることが繰り返し語られています。そして、聖書は、神がこの大宇宙も、あらゆる生き物のうちにある命も、すべての物質の原子や素粒子も造られた。だから、罪人である私たちを造り変えることができ、罪の結果損なわれてしまったあらゆるものを新しくし、回復することができると教えています。
イエスは、神が聖霊によって私たちを「新しく生んで」くださると教えられました。イエスを信じる者は神の子どもとして新しく生まれます。使徒パウロも「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(コリント第二5:17)と言って、キリストを信じる者が新しい存在に造り変えられることを教えています。罪と罪の結果からの救いは、人間の努力によって達成できるものではありません。たとえば、自分で自分の靴紐を引っ張ったからいって、体を宙に浮かすことができないように、罪ある私たちは自分で自分を罪から救い出すことはできないのです。それができるのは、すべてのものを造られた創造者である神だけです。創造者であり、救い主である神は、イエス・キリストの十字架によって私たちの罪を赦してくださったばかりか、キリストの復活によって私たちを新しく造り変えて、救いを成就してくださいました。
イエス・キリストを信じる私たちは「神の子ども」とされ、「神の民」とされ、「新しく造られた者」となりました。新しい身分、新しい関係、新しい性質、新しい使命を持つ、新しい存在となったのです。救いは私たちのたましいから始まり、それはやがて私たちの生活を変え、さらに社会を変えていきますが、それだけで終わりません。救いは、神が造られたあらゆるものに及びます。なぜなら、人類が犯した罪は、たんに個々人に影響を与え、社会を堕落させただけでなく、神が造られたすべてのものに滅びをもたらしたからです。
創世記1章を見ると、神が6日に分けて世界を造られたとき、その一日、一日に「神はそれを良しと見られた」と書かれています。そして、すべてを造り終えられたとき、「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった」(創世記1:31)とあります。英語では “It was good.” で、世界は良いものであり、神の栄光にあふれていました。ところが、人が罪を犯したとき、世界もまた罪の結果を受け、ローマ8:20にあるように、「被造物が虚無に服した…」のです。人が罪を犯したとき、神はアダムに「あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ」と言われたように、神が人のために創造されたあらゆるものも虚しいものとなったのです。
ですから、神の救いは、すべての被造物に及ばなければならないのです。ローマ8:21にあるように、被造物もまた、「滅びの束縛から解放され」る日、「新しい天と新しい地」が創造される日を待っています。神は、人類だけでなく、すべての被造物をも贖われます。そして、すべての被造物が贖われることによって、神がイエス・キリストによって成就してくださった救いが完成するのです。
このような救いの計画は誰も想像しなかったこと、いや、想像できなかったことです。人間が考える救いは、せいぜい自分の生活が成り立ち、心にやすらぎがあることといった程度のものでしょう。人々が神々に願うことは、家内安全、無病息災、商売繁盛です。受験に合格し、恋愛が成就するようにといったことも願うでしょう。世界平和なども願うかもしれません。しかし、造り主であり、救い主である、まことの神は、人が救われるともに、全被造物も救われることを願われ、やがての日に、新天新地を生み出してくださるのです。私たちは、その新天新地に住むのです。ペテロ第二3:12-13にこうある通りです。「その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」
二、新しいエルサレム
次に、イザヤ65:18と黙示録21:2を比べてみましょう。イザヤ65:18には「見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする」とあり、黙示録21:2には、「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た」とあります。この「エルサレム」は、地上のエルサレムのことではありません。「神の民」のことです。黙示録では「新しいエルサレム」が「花嫁」と呼ばれていますが、「キリストの花嫁」とは「教会」のこと、つまり、新約時代の「神の民」です。ですから「エルサレム」は「神の民」を指しているのです。
キリストを信じる者は「クリスチャン」と呼ばれますが、「クリスチャン」という名前には、「キリストのもの」、「キリストに属する者」という意味があります。ときとして私たちは、自分たちがキリストのものであり、神に属していることを忘れてしまうことがあります。そうすると、自分が誰なのかというアイデンテティを失います。どこにも属さない、誰ともつながっていないというのは、宇宙空間に一人で放り出されたようなもので、それ以上の恐怖や不安はありません。
そんな私たちを救うのはキリストとの愛のつながりです。新天新地が現れるとき、私たちは神の民として、また、キリストの花嫁として、完全に神につながり、キリストに結ばれます。もはやどんなものも、神と私たちとの愛の絆を断ち切ることができなくなります。「新しいエルサレム」という言葉は、そのような神との交わりを教えています。
三、神の幕屋
最後にイザヤ65:19と黙示録21:3-4を比べてみましょう。イザヤ65:19には、「わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない」とあり、黙示録21:3-4には、「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである」と書かれています。イザヤ書は「泣き声も叫び声も聞かれない」と言いましたが、黙示録はさらに「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる」と言って、新天新地での神の慰めを教えています。
かつて、エルサレムの町で最も大切なのは神殿でした。ところが「新しいエルサレム」には、どこにも神殿がありません。それは「新しいエルサレム」自体が、神が人とともに住まわれる神殿だからです。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる」とありますが、これは、ヨハネ1:14の「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」との言葉を思い起こさせます。「ことば」と呼ばれている神の御子は人となって、文字通り人々の間に「住まわれた」のですが、この「住む」という言葉は「天幕を張る」と訳すことができます。最初の神殿は天幕づくりで「会見の幕屋」と呼ばれました。人がそこで神と会う場所でした。イエスはご自分を神殿とし、イエスによって神にお会いできるために、人となって世に来られました。イエスは、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28:20)と約束され、今も、信じる者とともにいてくださいます。
しかし、主が私たちとともにおられても、私たちが、そのことを忘れ、確信でず、体験できない時もあるでしょう。しかし、新天新地では、そのようなことはありません。そこでは、誰からも「神について」教えてもらう必要はありません。私たちは、神ご自身を直接仰ぎ見、神の臨在に包まれて生きるのです。
イザヤが「新天新地」を預言したのは、エルサレムが滅びようとしていた時でした。「たとえ、地上のエルサレムが滅び、神殿が破壊されても、それで神の民が見捨てられたのではない。神は、神の民を取り戻してくださる」と、神はイザヤに教えてくださったのです。
ヨハネが黙示録を書いたときには、ペルシャのキュロス王の時代に再建された神殿は、ローマ兵によって火をかけられ、あとかたもなくなってしまいました。エルサレムの町は荒れ地となり、そこは「アエリア・カピトリナ」と呼ばれるようになって「エルサレム」という名前すら地上から消え去りました。パウロも、ペテロも、他の使徒たちも、ネロ皇帝のときから始まった迫害によって次々と殉教していきました。使徒たちの中では一番年若かったヨハネだけが生き残りましたが、彼もすでに老齢になってパトモスに島流しに遭っていました。
預言者イザヤも使徒ヨハネも、泣き声をあげ、叫び声をあげたくなるような状況の中で、「新しい天と新しい地」の幻を見ました。神が神の民とともにいて、神の民を喜び、楽しみ、花嫁として愛し、その手で涙をぬぐってくださるのを見たのです。イザヤが40:1に書いた「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」との言葉はイエス・キリストによってすでに成就しました。今は、イザヤ65章と黙示録21章が成就するのを待つ時代です。「しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」(ペテロ第二3:13)この言葉の通りに神の救いが完成する日を待ち望み、新天新地にある慰めを先取りして受けながら歩み続けたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、あなたが旧約の預言者たちに語られた言葉の通り、救いは成就しました。そして、その救いは「新天新地」を目指して進んでいます。この世では、悲しみの涙を流し、苦しみの叫びを上げることもありますが、そのようなときこそ、新天新地で与えられるあなたの慰めを先取りし、それによって、悲しみや苦しみを乗り越えることができるようにしてください。主イエスのお名前で祈ります。
2/23/2025