海の中の道

出エジプト記14:15-18

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14:15 主はモーセに言われた。「なぜ、あなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの子らに、前進するように言え。
14:16 あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい。そうすれば、イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を行くことができる。
14:17 見よ、このわたしがエジプト人の心を頑なにする。彼らは後から入って来る。わたしはファラオとその全軍勢、戦車と騎兵によって、わたしの栄光を現す。
14:18 ファラオとその戦車とその騎兵によって、わたしが栄光を現すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。」

 一、出エジプト

 ファラオは、神の言葉に逆らい、神の警告を無視し続けたため、エジプトに恐ろしい神の裁きを引き寄せました。それは、エジプト中の最初に生まれた男の子、長子という長子が、ファラオの長子から、家畜の初子にいたるまで、一夜のうちに皆、死ぬというものでした。これは全エジプトに及んだのですが、イスラエルの人々は「過越の子羊」によって、この災いを受けずに済みました。ファラオは、やっと、イスラエルをエジプトから去らせることになり、エジプトの一般の人々も、イスラエルの人々を急き立てて、エジプトから送り出しました。そのとき、エジプトの人々は、イスラエルの人々に、金や銀、衣服などを与えました。これらは、イスラエルがエジプトのために働いた賃金の代わりに、神が与えてくださったもので、後に、神の幕屋を作る材料となりました。

 エジプトに移り住んだ、たった70人の小さな集団は、このときには、壮年の男子だけで60万人となっていました(出エジプト記12:37)。これらの人々がエジプトを出発したのは、彼らがエジプトに移り住んでからちょうど430年目でした(同12:40-41)。このエジプトからの脱出は「出エジプト」、ギリシャ語では、〝ἔξ〟(out of)と〝οδος〟(way)を組み合わせて〝ἔξοδος〟と言い、英語では〝Exodus〟となりました。1960年に作られた映画〝Exodus〟は、キプロスに収容されていたユダヤの人々が貨物船に〝Exodus〟という名前を付け、パレスチナに向かう物語です。この映画のタイトルは日本語では「栄光への脱出」でしたが、聖書の「出エジプト」は、まさに、「栄光への脱出」でした。

 出エジプト記13:13でモーセが「奴隷の家、エジプトから出て来た、この日を覚えていなさい」と言っているように、イスラエルは、この日を境に「自由な民」となりました。また、出エジプト20:2で神が、「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である」と言っておられるように、イスラエルは自由な民以上の者、「神の民」とされました。イスラエルは、意気揚々、主が示される場所へと向かったのです。

 二、ファラオの追撃

 「それから、イスラエルの人々は無事に約束の地にたどり着いた」といえば話は簡単なのですが、ところが、そうはいきませんでした。イスラエルがエジプトを去って、しばらくしてから、ファラオは、こう言いました。「われわれは、いったい何ということをしたのか。イスラエルをわれわれのための労役から解放してしまったとは。」(出エジプト記14:5)奴隷がいなくなったら、誰がレンガを作り、田畑を耕し、家畜を飼うのでしょう。ファラオは、何10万という労働力を失ったことにやっと気づきました。ファラオがイスラエルを去らせたのは、主なる神の前に悔い改めたからではなかったので、彼はまたしても、心を硬くしました。自分の権威を傷つけた「ヘブル民族」への復讐心もあって、イスラエルの人々を追いかけて滅ぼそうとしました。ファラオは自ら戦車隊と騎兵を率いてイスラエルを追撃しました。そして、海辺に宿営しているイスラエルに襲いかかろうとしたのです。

 前は海、後ろはエジプトの戦車。これを見たイスラエルの人々は恐れのあまり、モーセに向かってこう言いました。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」(同14:11-12)イスラエルの人々は、神の「伸ばされた御手と力強い御腕」(申命記4:34; 5:15; 7:19; 11:2; 26:8)でエジプトから救い出され、「出エジプト」を体験したばかりなのに、もう、神のお力を忘れ、恐れ、怯え、まるで出エジプトを否定するかのようなことまで言いました。

 聖書は、神の御手、御腕を、おもに神の力を表すものとして使っていますが、けれども、神の御手、御腕は、同時に愛の御手、いつくしみの御腕でもあるのです。イザヤ40:11には「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」とあり、49:2には「主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私をかくまい…」とあります。エジプトを脱出したイスラエルの群れには、老人もいれば子どももいました。たくさんの家畜の群れも一緒でした。そんな集団が、あと少しでエジプトの支配も、どの民族の支配も及ばない場所まで後少しという地点まで導かれてきたのです。それは、神の力の御手、御腕によるものであるとともに、ご自分の民をかくまい、守る、神の愛といつくしみの御手と御腕によってでもあったのです。そのような、いつくしみ深い神が、どうしてご自分の民をお見捨てになるでしょうか。全能の御手と御腕をお持ちの方が、ファラオの追撃を黙って見ておられるわけがないのです。

 モーセは、恐れ、怯える民に言いました。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」(14:13-14)恐れの心は、神と神の力や愛を見えなくさせます。自分たちの行く手を遮る海、そして、背後に迫るエジプトの戦車隊。それしか見えなくなるのです。人々は不平不満を口にしましたが、それを続けているうちは、神の言葉が聞こえないのです。それで主は、「主があなたたがのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい」とモーセを通し、語られました。

 けれども、困難な現実に直面したとき、私たちは、恐れたり、慌てたり、騒いだり、つぶやいたりするのです。それで、神は、「静まって、わたしこそ神であることを知れ――〝Be still, and know that I am God.〟」(詩篇46:10口語訳、ESV)と言われるのです。困難に直面するとき、自分の願うようには物事が進まないとき、口に出してつぶやかなくても、私たちの心に、さまざな「雑音」が起こります。そのため、神の声が聞こえなくなるのです。だからこそ、ふだんから、神の前に「静まること」、神の臨在を意識すること、神の言葉に聴くことに励むことが大切なのです。

 三、海の中の道

 さて、イスラエルのために、神はどんなことをしてくださったでしょうか。神がモーセに告げられた通り、モーセが杖を持った手を高く上げると、強い東風が吹き、海が分かれ、乾いた地面が現れました。イスラエルは、そこを歩いて向こう岸に渡ることができました。それを見たエジプトの戦車隊は、同じようにして海の中にできた道に入ったのですが、たちまち、混乱に陥りました。両側が水の壁となったのを見て、まず、馬が暴れ出しました。それに、そこは、乾いた地面になったとはいえ、もとは海の底だったところです。砂地や、柔らかいところ、岩や石にからまって、戦車が次々と車輪を外しました。それで、エジプトの戦車隊や騎兵は退却しようとしましたが、イスラエルの人たちがすべて、海を渡り切った後、モーセが再び杖を高くあげると、海の水はたちまちもとに戻り、エジプト軍は海に飲み込まれてしまいました。先に、王位継承者を失い、奴隷を失ったファラオでしたが、今度は軍隊までも失ってしまったのです。神は、このようにして、エジプトを懲らしめ、イスラエルを救い、ご自身の栄光を表されました。

 「出エジプト」は古代の歴史の大事件でしたが、それは同時に、イエス・キリストによって成し遂げられる救いの原型であり、預言でもありました。イスラエルが過越の子羊によって神の裁きから救われたことは、今日の私たちが、過越の子羊となって十字架で血を流されたイエス・キリストによって、罪を赦され、罪の裁きから救われることを示しています。また、イスラエルの人々がエジプトの奴隷から解放されたことは、罪と死の奴隷となっていた私たちが、そこから解放され、自由な神の民とされることを示すものでした。

 また、エジプトから救われたのちのイスラエルに起こった出来事は、新約時代の信仰者に信仰の歩みを教えるためのものでもあったのです。コリント第一10章には、エジプトから救われた最初の世代の人々が神のみこころにかなわないことをしたため、荒野で滅んでいったことを取り上げ、「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです」(コリント第一10:11)と言っています。

 そのような観点から、この出来事を見るなら、これは、イエスによって救われた者にも、同じような試練が臨むことを教えています。多くの信仰者が、救われた後は、順調な生活が待っていると期待するのですが、かえって、さまざまな試練が押し寄せてくるのを体験しています。イエスを知り、信じ、罪が赦された感激、神の子どもとされた喜びに満たされたのに、赦されたはずの罪を再び犯してしまう、この世から救われ、神の子どもとされているのに、神の子どもとしてよりも、この世の者のように行動してしまう。そんな、信仰の躓きを感じている人も多いと思います。せっかくエジプトを出たのに、まだエジプトが追いかけてくる。しかも、自分の行く手は、横たわる大海によって遮られている。そんなふうに感じ、失望している人も少なくないと思います。

 しかし、神は、前は海、後ろは戦車隊といった状況の中でも、必ず働いてくださいます。それは、人の目には「絶体絶命」に見えるかもしれませんが、神にあっては、「絶体絶命」などないのです。コリント人への手紙は、続いてこう言っています。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(コリント第一10:13)ここに「脱出の道」とある言葉は〝Exodus〟と同じ言葉ではありませんが、それと似た意味の言葉(ἔκβασις)です。これには、船が陸地にたどりつくところ、〝landing point〟(船着場)という意味があります。「波が凪いだので彼らは喜んだ。/主は彼らをその望む港に導かれた」(詩篇107:30)などといった言葉を連想させます。また、これには、「人生の結末」という意味があります。試練を乗り越えた後、それを通して信仰が強められ、人格が練られ、平安と祝福に満たされることを言っています。

 神は、イスラエルのために海を取り除きはなさいませんでした。しかし、その海の中に道を造ってくださいました。同じように、神は、私たちから困難を取り除けられないかもしれません。けれども、神は、その困難の只中に、それを通り抜けることができる道を造ってくださるのです。私たちの直面する困難が海のようであれば、そこに乾いた道を、それが山のようであれば、それを貫くトンネルのような道を開いてくださいます。私たちの神は、海のただ中に道を造る奇跡を起こす全能の神です。エジプトと戦う力のない群れを守ってくださる愛の神です。コリント人への手紙にあるように、ご自分の言葉を守り通される「真実な」神です。

 日本には、希望を失い、人生に絶望して、自ら死を選ぶ人が多くいることを聞き、心が痛みます。きょうのこの箇所は、神にあって「絶望」も「絶体絶命」もないことを教えています。こうしたメッセージを伝えたいと願います。神にあって、どんなときも私たちは希望を失わずに進むことができます。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは私たちを罪と死と滅びから救い出してくださったばかりか、救われた後に出遇うさまざまな試練からも、その力の御手で助け、愛の御腕で守り、支えてくださることを感謝します。私たちは時として落胆はしますが、決して絶望することはありません。困難に遇いますが、絶体絶命はありません。あなたは脱出の道を造り、平安と祝福へと導いてくださいます。この週も、あなたが私たちのために造ってくださる道を、信仰によって歩む者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。

7/21/2024