暗闇から光へ

コロサイ1:12-14

オーディオファイルを再生できません
1:12 また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。
1:13 御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
1:14 この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

 一、私たちの過去

 私たちは、イエス・キリストを信じる以前には闇の中にいました。コロサイ1:13に「御父は、私たちを暗闇の力から救い出し…」とあるように、「暗闇の力」に支配されていたのです。では、この「暗闇の力」とは何でしょうか。エペソ2:1-3に、3つの「暗闇の力」が書かれています。「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」「暗闇の力」の最初のものは、「罪の中に死んでいた」とあるように、自分の「罪」です。罪とは神との断絶を意味します。神は私たちにいのちを与え、生かしておられるお方ですから、神から離れるなら、たとえからだは生きていても、生活が成り立っていても、その人の霊は死んでいるのです。人生の意味も目的も、またその喜びもないまま、生きながらの死の中にあるのです。

 「暗闇の力」の第2のものは、「この世の流れに従い…」とあるように「この世」です。私は、ここを読むたびに、羽鳥明先生が語ったお話を思い起こします。今でもそうかもしれませんが、かつては、川のあるところでは、山から切り出した材木を筏に組んで川しもの製材所まで運びました。丸太は、あちらの岸にぶつかり、こちらの岩にぶつかりながら、ゴロン、ゴロンと川しもに流されていきます。けれども、その川に住む魚は、川の流れに逆らって、川上に向かて泳いでいきます。いのちのないものは、ゴロン、ゴロンと流されるまま、しかし、いのちのあるものは、スイ、スイと流れに流されることなく進む。丸太は「罪の中に死んでいる」人の姿、魚は「神によって生かされている」人の姿です。私たちは「ゴロン、ゴロン」という人生を送っているでしょうか、それとも「スイ、スイ」という人生を送っているでしょうか。そんなお話でした。確かに、多くの人は、神のみこころを問い、よく考えて判断し、行動するよりは、「みんながしているから」という理由で物事をしてしまいます。神から離れていたとき、私たちは「この世」の流れに流され、間違った判断をし、神のみこころから遠く離れていました。そのため、自分をもまわりの人をも幸せにする生き方ができないでいたのです。

 「暗闇の力」の第3のものは「空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊」とあるように、「不従順の霊」です。エペソ6:12にも「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです」とあります。聖書は、罪を持つ人間と、罪ある人間が作り出した罪深い社会、「この世」を支配している霊的な存在があることを教えています。その霊たちは自分たちが神に不従順であったばかりか、人とその社会を神に不従順なものにしようと働いているのです。彼らは、私たちの目には直接見えませんが、様々な残酷な犯罪、狂った社会、国民を苦しめる権力者、戦争を煽って利益を得ようとする人々の背後にいるのです。神が創造された秩序を混乱に、善いものを悪いものに、美しいものを醜いものに変えているのです。神を知らず、自分の罪に気づかずにいた私たちは、それとは知らずに罪と世と悪霊の支配の下にあったのです。

 二、私たちの現在

 しかし、私たちは、神がおられることを知りました。昔から聞かされてきた神々ではなく、この世界を創造された全知全能の神です。私たちが神を信じるのは、何か頼りたいものが欲しいので、神がいると思い込み、神がいることにしておこうと決心したからではありません。神がおられる証拠は、神が創造された世界に満ちています。物理学は物質と物質の間の運動を解明し、化学は物質と物質の反応を調べ、生物学は遺伝子レベルで生命情報を分析できるようになりました。自然科学の発展は、ますます神の創造の偉大さを証明するものになっています。神の知恵と力なしには、この世界の成り立ちを説明できないからです。

 しかし、科学は、世界がどのようなものであるかを説明することができても、何のために存在するのかを教えることはできません。フランスの画家、ゴーギャンは、自分の描いた絵に「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか」と書き込みましたが、その答えは、私たちを創造された神からしか来ないのです。造られた世界に、ご自分の全知全能を現された神は、人類の歴史とともに歩み、そこにご自分の聖(きよ)さ、義(ただ)しさ、そして、愛といつくしみを現し、私たちに生きる意味と目的を教えてくださいました。そればかりでなく、神が教えてくださった生きる目的にかなわず、罪を犯し、不従順の中に生きてきた者を救うために、私たちの世界に、ご自分の御子を送り、暗闇に閉じ込められ、光の見えなかった私たちをそこから救い出し、イエス・キリストの光のもとに置いてくださいました。イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちを、罪と、世と、悪霊の力から救い出してくださったのです。きょうの箇所、コロサイ1:13-14に「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」とある通りです。

 ここで、神が「御父」と呼ばれているのは、神が「御子」イエスの父であるというだけでなく、神の御子イエス・キリストを信じる者もまた、神の子どもとされ、神を「父」と呼ぶことができるからでもあるのです。御父の御子に注がれている愛は、神の子どもたちにもそのまま注がれているのです。イエス・キリストの父なる神が、信じる者の「父」となってくださり、私たちは、神の愛のうちに生きるのです。これが救いです。「闇」から「光」への救いです。

 使徒パウロは、この救いを文字通り体験しました。彼はエルサレムで高名なラビ・ガマリエルのもとで律法の研究に打ち込んでいた、若きパリサイ派の指導者の一人でした。エルサレムに教会ができるとパウロは、「イエスがキリストであるはずがない」という自分の信念に基づいて、教会を迫害しはじめました。それだけではものたらず、エルサレムからはるか離れたシリアのダマスカスの教会にも手を伸ばそうとしました。そのときでした。イエス・キリストがパウロに現れたのです。パウロはイエスの栄光に打たれ、目が見えなくなってしまいました。文字通り「暗闇」の中に三日間を過ごしました。パウロが暗闇の中に時を過ごしたのは、彼がどんなにかキリストの真理から遠ざかり、霊的な暗黒の中にいたかに気づくためでした。パウロはそのことに気づき、罪を悔い改め、イエス・キリストを信じました。そのとき、彼の目から鱗が落ち、再び目が見えるようになり、バプテスマを受け、ダマスカスの教会の交わりに迎え入れられました。

 パウロは、このように、闇から光へと、まるで絵に描いたような体験をしました。私たちにもそれぞれの体験があるかと思います。私も、伝道集会に行って、イエス・キリストを信じたあの日の体験を忘れることはできません。しかし、体験は人によって違います。クリスチャン・ホームに育った人には、いつか知らない間にイエスを信じていたということがおおいでしょう。救いの体験は大切なものですが、それよりも大切なのは「救いの確信」です。たとえ、ドラマチックな変化がなくても、イエス・キリストの十字架の贖いによって私の罪は確かに赦されている、復活によって、永遠のいのちが与えられている、神の子どもとされている、私は「愛する御子のご支配」の中にある。そうしたことを、聖書の言葉によって信じ、確信すること、これがより大切なことなのです。

 以前、日本に行ったときのことです。飛行機が午前7時に羽田に着きました。しかし、私の時計も、体内時計も、まだ、アメリカ時間の午後5時のままでした。お昼ごろになると、とても眠くなりました。たとえ、体がもう夜10時だと告げても、日本に移動した以上は、それは正午です。私は時計を正午に合わせ、眠いのを我慢しました。同じように、私たちは、神が「暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移して」くださった事実を、事実として受け入れるのです。体験だけに頼り、感情に従うのではなく、信仰によって事実を事実として受け入れるのです。それが信仰による確信、信仰による歩みなのです。

 三、私たちの未来

 私たちは、イエス・キリストを信じるまで、ほんとうの意味での人生の意味と目的が分かりませんでした。しかし、イエス・キリストを信じ、救われたのちは、その意味と目的を知りました。それは、ウェストミンスター小教理問答の言葉を借りれば、「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」です。「神の栄光をあらわす」とは、言い換えれば、私たちが「世の光として輝く」ことです。イエス・キリストは、パウロに現れてくださったとき、こう言われました。「わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。」(使徒26:17-18)イエスがパウロの目を開き、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返えらせてくださったのは、真理に対して盲目となっている多くの人の目が開かれ、暗闇の支配から愛する御子のご支配へと移されるため、いのちのことばの光をかかげて生きるという使命を、パウロに与えるためだったのです。

 そして、パウロに与えられたこの使命は、すべてのクリスチャンにも与えられています。ペテロは、こう言っています。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」(ペテロ第一2:9)ここでの「あなたがた」は、イエス・キリストを信じて救われた人すべてです。「告げ知らせるため」とありますが、「告げ知らせる」方法は様々です。説教や教えによって福音を告げ知らせる人もあれば、人々に仕えることによって、人々によりそい、助けることにも、そのことができます。神は一人ひとりに、何をすべきか、その役割を教えてくださるでしょう。

 私たちは、過去、闇の中にいました。現在、光の中に移されました。そして、未来は、もっと大きな光の中へと導かれます。コロサイ1:12に、「また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように」とあります。ここで言われている「光」は、永遠の御国の栄光のことです。今、私たちは、神の栄光を見、また、神の栄光を表そうとしていますが、地上にはそれを妨げるものがあり、私たちも、完全にはそうすることができません。しかし、天では違います。そこにはもはや罪がなく、神の栄光を妨げるものがないからです。神の子どもとされた私たちは、完全な栄光のうちにある神の国を相続するのです。

 ほんらいは、「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」であった者が、「神の国の相続者」となったのですから、その資格を与えてくださった御父に、どうして「喜びをもって感謝をささげ」ないでいることができるでしょうか。「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである。」この言葉のように、神のために「世の光として輝く」者は、今も、神を喜びながら生きるのですが、やがて、永遠の御国に入れられるときには、「永遠に神を喜ぶ」のです。私たちがかかげる光は、父なる神の愛の光、永遠の御国を相続する希望の光、そして、私たちに与えられた恵みを感謝する喜びの光なのです。そうした光をかかげながら、この人生を歩みましょう。

 (祈り)

 私たちを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった父なる神さま、あなたは、私たちが、イエス・キリストの福音を証しし、あなたの栄光を表すことを期待しておられます。御父よ、私たちが、今、置かれているところで、どのようにしてそれを果たせばよいのかを、教えてください。信仰と、希望と、感謝と、喜びをもって、そのことを実行できるよう、助け、導いてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

8/11/2024