謙遜を身に着ける

ペテロ第一5:5-6

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5:5 同じように、若い人たちよ、長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。
5:6 ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。

 一、本当の謙遜

 日本の文化では、自分をへりくだらせることは、当たり前のことで、それが礼儀のひとつになっています。時代が変わり、人々の意識も変わってきましたが、今でも、日本人の多くは「ふつつかな者ですが…」とか、「お粗末なものですが…」などの言葉を口にします。しかし、それは言葉だけのことで、「出る釘は打たれる」ことを避けるための処世術の一つになっている場合もあります。

 また、「謙遜」が自分を低く見ることだと誤解され、劣等感に捕らわれている人が多くいます。謙遜であることは、劣等感を持つことではありません。劣等感の反対は優越感ですが、実は、強い優越感を持って他の人を見下すような人は、たいてい、同時に劣等感を持っていて、自分より劣ると思う人に対して強い態度をとるのです。そうした優越感は、劣等感の裏返しです。

 優越感を振り回したり、劣等感に閉じこもったりするのは、自分を正しく受け入れることができないことから来ます。優越感とは、自分を自分以上のものであると幻想することで、劣等感とは、自分を自分以下のものとみなすことです。「謙遜」とは、自分を自分以上のものでも、自分以下のものでもなく、自分を自分として正しく評価することです。決して、自分を低く見ることではありません。

 日本では、私たちの世代は、おとなも子どもも、減点主義で評価されました。誰にも100点満点を要求し、たとえ、90点、80点の良い成績でも、足らなかった10点、20点のために手厳しく叱られたものです。「そんなこともできないのか」、「お前はダメだ」、「バカだ」と言われてきました。今では、それは「ハラスメント」とされていますが、皆が同じでなければならないというプレッシャーは、今でも強く残っています。そのため、一定の枠にあてはまらない人たちが、劣等感に苦しめられています。そうしたことが、自分に閉じこもり、家に閉じこもる若者が増えている原因の一つかもしれません。そうした人たちは結婚して家庭を持ち、子どもを育ててることがないので、社会が支えられなくなっています。それは、国の将来にかかわる大きな問題となっています。

 では、本当の謙遜を身につけ、劣等感からも、優越感からも解放されるためにはどうしたらよいのでしょう。心理学はある程度役に立つかもしれません。しかし、「本当の謙遜」は、心理学によっては持つことができません。多くの心理学説は、神を認めませんから、罪も認めません。しかし、聖書は人の罪の根本にあるものは「高慢」であって、罪の解決がなければ、本当の謙遜には至らないと教えています。

 蛇がエバとアダムを誘惑したとき、善悪の知識の木について、「それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです」と言いました。これは実に巧妙な言葉です。何重もの罠が背後にあります。ここで「善悪を知る」というのは、善悪をわきまえるという意味ではなく、善と悪を決定するという意味です。何が善であり、何が悪であるかを決めておられるのは、主権者である神です。ところが、蛇は、「あなたがたが神のようになって善悪を知る」と言って、神に善悪を決めてもらう必要はない、自分たちで善悪を決めればよいのだと言っているのです。また、「神は知っているのです」との部分は、「神は、人に対して、知恵や知識を与えるのを惜しんでいる。だったら、人間の側でもほんの少し神に逆らって、知恵と知識を手に入れてもかまわないのではないか」とそそのかす言葉です。神の真実や愛を疑わせ、神の言葉に逆らわせる誘惑です。

 このように、罪の根源、「原罪」と呼ばれるものの中には、「神のようになろうとする」高慢が潜んでいます。人がこの罪を認め、神の前に悔い改め、イエス・キリストによる罪の赦し、聖霊によるきよめを受けないかぎり、本当の謙遜を持つことはできません。それによって、自分を正しく評価し、自分の価値を正しく認めることができないのです。

 二、キリストの謙遜

 神は、人が、罪から救われて、本来の姿に立ち返ることができるために、ご自分の御子を、最も謙遜な姿、つまり「しもべ」(原語では「奴隷」)の姿で、徹底してへりくだった者として世に遣わされました。

 創造者である神が被造物である人となられた。それだけでも、考えられないほどの謙遜であるのに、イエスは、ガリラヤ開拓民の貧しい家庭に生まれ、生まれたときには家畜小屋の飼い葉桶に寝かせられました。家畜のように扱われたのです。家畜は人間のしもべですから、あのクリスマスの情景は、主であるイエスが人のしもべとなられたことを物語っているのです。

 イエスはご自分が救い主であることを示すために権威をもって人々に語り、力あるわざを行われましたが、イエスの態度は、決して高圧的なものではありませんでした。いわゆる「上から目線」で人々に語るのでなく、苦しんでいる人、悲しんでいる人、病気の人、障がいを持つ人、社会から疎外されていた人々に文字通り寄り添われました。パリサイ人たちは、そんなイエスを「罪人の仲間」(マタイ11:19)と呼んで非難しましたが、イエスはその非難を甘んじて受けられました。実際、十字架刑では、極悪人とともに、鞭打たれ、十字架に釘付けられ、呪いの木に吊るされました。文字通り「罪人の仲間」となられたのです。

 聖書は、主のへりくだりについて、こう言っています。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」(ピリピ2:6-8)これは、キリストを信じる者たちに、キリストに倣うようにとの勧めの中で言われている言葉です。十字架は、倣うべき模範ですが、それだけではありません。それは、イエスが究極の謙遜によって、私たちの罪を、そこに潜んでいる私たちの高慢とともに打ち砕くためにしてくださった救いのみわざです。この救いを受けることによって、はじめて、十字架を負ってイエスに従うことができるのです。イエスの十字架が私たちの罪のためであったと信じ、受け入れるとき、私たちの罪は、その高慢の根とともに砕かれ、私たちは、しもべとなられたキリストの姿に変えられるのです。

 きょうの箇所に「謙遜を身に着けなさい」とありますが、ここで「身に着ける」とあるのは、寒くなった時にジャケットを羽織るようなこととは違います。もし、そうなら、謙遜が、自分の高慢さを隠すための手段になってしまいます。ここで「身に着けなさい」と言われているのは、人に見られる時や、何か特別な時にあわてて謙遜を着込むことではなく、普段着のようにいつも身につけ、それがまるで皮膚のようになり、自分のからだの一部になることを意味しています。コロサイ3:9-10に「あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです」とある通り、イエス・キリストを信じる者は、すでに「しもべ」であるキリストの姿を持った「新しい人」として造り変えられているのです。

 アダムとエバは、「木の実をとって食べれば、神のようになれる」との偽りの言葉に従い、罪を犯しましたが、神は、私たちが「神のかたち」を取り戻し、本当の意味で「神に似た者」、「神の子ども」となるようにしてくださいました。アダムとエバが罪を犯したとき知ったのは、「善」ではなく「悪」でしかありませんでした。しかし、神は、イエス・キリストによって、私たちを「真の知識」、本当の善を知る知識に導いてくださるのです。コロサイ3:10に、「新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります」とある通りです。

 そして、この内面の変化が外側に現れるために働いてくださるのが聖霊です。イエス・キリストによって私たちにキリストの謙遜を与えてくださった父なる神は、聖霊によって、それが、生活の中に現れるようにしてくださいます。コロサイ3:12に、「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい」とあるのは、そのことです。そこにある「慈愛、親切、謙遜、柔和、寛容」は、ガラテヤ5:22-23では「御霊の実」といわれ、聖霊の働きによって人生のうちに実を結ぶもの、生活の中に現れるものであると教えられています。

 三、謙遜を身に着ける

 「謙遜を身に着ける。」それは、人間の力でできることではありません。神がしてくださることです。けれども、私たちには、イエス・キリストを信じ、聖霊に信頼して、謙遜を祈り求めることができます。神は私たちの求めに応じて働いてくださるからです。このことについて、「マリオとアンセルモ」というお話しがあります。

 南イタリヤの田舎に、地主の息子でマリオという少年と、アンセルモという、貧しい靴屋の息子がいました。二人は、境遇は違いましたが、大の仲良しでした。こどもの頃、誰もが話す話題ですが、アンセルモがマリオに、「将来何になりたいの?」と聞きました。マリオは「ぼくは、大勢の人々の前で話す、大説教家になりたい」と、目を輝かせて話しました。マリオがアンセルモに、「君は?」と聞くと、アンセルモは、それには答えず、「ぼくは、君が大説教家になれるように祈るよ」と言うだけでした。

 やがて、マリオが修道院に入るために村を出て行く日がやってきました。家が貧しいために学校に行けなかったアンセルモは、村に残って、マリオのために祈っていましたが、数年してから、アンセルモも村を出て、マリオの修道院で召使いとして働くことになりました。

 マリオが司祭になって、はじめて説教する日がやってきました。マリオは落ち着かず、廊下を行ったり来たりしていました。すると、召使いのアンセルモがそっと近づいてきて、「マリオ様、あなたのために祈っていますよ」とささやいて、通り過ぎました。それから説教壇に立ったマリオは、気持ちを落ち着けるために、深呼吸をしてから、大勢の人々を見渡しました。すると、教会の柱のかげで、祈っているアンセルモの姿が見えました。マリオの説教は、この日、人々に大きな感動を与え、次第に、マリオは、名説教家として人々に知られるようになりました。そして、マリオが説教するところにはどこにでも、アンセルモもいて、目立たないところでマリオのために祈っていました。

 こうしてマリオにローマの大聖堂で説教するという光栄が与えられました。幼い日から夢見てきたことがとうとう実現することになったのです。マリオは、今までしてきた名説教の中から、よりすぐりのものを選び、自信をもって、堂々と説教しました。マリオは、この日を境に、大説教家としての地位を不動のものにすることができると信じて疑いませんでした。

 ところが、ローマの大聖堂での彼の説教は、弁舌はさわやかであっても、人々に何の感動も与えませんでした。マリオは自分の説教は完全に失敗だったと知りました。そして、その日、いつもいっしょにいるはずのアンセルモの姿が見えないことに気づきました。修道院長に尋ねると、アンセルモは、その日の朝、マリオのことを気遣いながら天に召されていったとのことでした。

 数日後、修道院の片隅にあるアンセルモの粗末な墓に、マリオの姿がありました。マリオはそこで熱心に祈っていました。修道院長が、マリオを見つけ、「マリオ司祭、あなたは再び前のような名説教が出来るように祈っているのですか」と聞きました。すると、マリオは振り返って、こう答えました。「いいえ、名説教家になりたいとは祈りませんでした。アンセルモのような謙遜さを身に着けたいと、祈っていたのです。」

 イエスはその謙遜によって私たちを救ってくださいました。そして、私たちに同じ謙遜を身に着けるよう願っておられます。このイエスのお心を知って、心から謙遜を求める私たちでありたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、人間の高慢から始まった罪を解決するため、あなたは、御子イエスをへりくだった姿で、人間のもとに送られました。イエスは十字架の死にまでも従い、その謙遜によって私たちの救いを成就されました。私たちは、イエスの救いとともにイエスの謙遜を受け取りました。主がその謙遜によって世を救われたように、私たちも、私たちの謙遜によって人々を主に導く者としてください。へりくだる者に与えられるあなたの恵みを待ち望んで、主イエスのお名前で祈ります。

10/13/2024