光の中を歩む

ヨハネ第一1:5-7

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1:5 私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。
1:6 もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。
1:7 もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。

 一、クリスチャンと罪

 日本の三味線の弦には絹糸が使われ、演奏中切れてしまうことがあります。たった三本しかない弦の一本でも切れてしまえば、もう演奏できなくなるのですが、プロの人たちは、弦が切れたときでもそれをカバーして演奏する稽古をすると聞いたことがあります。どの楽器でも、十分点検していても、どんなハプニングが起こるか分かりません。本当のプロフェッショナルは、そんなときも、演奏を楽しんでいる観客を驚かせないように演奏を続けるテクニックを身に着けているのです。

 そうしたことはさまざまな分野に共通しています。以前、水撒き用の蛇口を直してもらったとき、プラマーが「パン」がないかと言いました。お腹が空いたので食べたいというのではありません。完全に水が止まらなかったので、パンを配管に詰め、水を止めて作業するためでした。作業が終わって、水を出すと、水に溶けたパンが蛇口から出てきました。彼は、物事がうまくいかなかったときの対処法を心得ていたのです。

 私たちの人生においても、いつでも自分が思うように事が進むとは限りません。ハプニングがつきものです。信仰生活でも、何の罪も犯さず、どんな失敗もなく過ごしている人は誰もいないでしょう。イエス・キリストを信じる者は、罪を赦され、きよめられています。常習的に罪を犯すことはありませんが、どんな罪も犯さないというわけではありません。悪意はなくても約束を忘れてしまったり、間違った情報を信じ込んでしまったり、主張が正しくても感情をコントロールできず、人を傷つける言葉を使ってしまうことがあるかもしれません。

 私たちは救われるまでは「自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行」っていました(エペソ2:3)。神の子どもとされてはいますが、まだ、神の子どもとしての性質が成長していないため、救われる以前と同じように振る舞ってしまうこともあります。

 また、罪には、神が定められた正しい道から外れて物事をする罪もあれば、神が望んでおられることを守り行わない罪もあります。「盗んではならない」、「偽証してはならない」などの戒めを破ることは誰の目にも罪と分かりますが、「神を愛し、隣人を愛せよ」という戒めは、そうしないことが罪であると考えられることは、あまりありません。しかし、聖書は、「なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人には罪です」(ヤコブ4:17)と言って、罪とは、悪を為すことだけでなく、善を行わないことでもあると教えています。そんな意味で、私たちは、神がしてはいけないと言われることを行う罪と、神がしなさいと言われることを行わない罪の両方を犯しているのです。

 クリスチャンには、光の子どもとされ、神の光を輝かせるつとめが与えられているのですが、クリスチャンの側の罪や失敗、また怠慢によって、その光を隠してしまったり、信仰のともしびがくすぶり、消えかかるようになるのです。ヨハネの手紙第一1:8には、「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません」とあって、10節には、「もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません」と書かれています。地上には罪のない人、また、罪を犯さなかった人など誰もいないのです。

 では、罪を犯してしまったときはどうしたら良いのでしょうか。罪や失敗によってともしびが消えかかったからといって、ほんとうに消してしまっていいわけがありせん。聖書は、再び、ともしびを明るく輝かせるために必要なことを教えています。

 二、罪を認め、言い表す

 それは、罪を犯すことがあったら、すぐに自分の罪を認め、それを神に対して言い表すことです。

 クリスチャンであるなしにかかわらず、私たちすべては罪人です。けれども、「人にはみな罪がある」と罪を一般的なものとして認めるだけでは、罪が赦され、そこから回復することはありません。それは、罪を認めているようで、「誰だって小さな嘘をつくし、人を嫌ったりする。人間なんだからしょうがない」と言って、自分の罪を弁解しているのにすぎません。

 罪を認め、それを言い表すとは、他の人はどうであれ、この私が、神の前に、この罪を犯したと、はっきりと認めることです。ダビデは、神に罪の赦しを願うとき、こう祈りました。「まことに 私は自分の背きを知っています。/私の罪は いつも私の目の前にあります。私はあなたに ただあなたの前に罪ある者です。/私はあなたの目に 悪であることを行いました。」(詩篇51:3-4)ダビデは「自分の背き」、「私の罪」と言っています。「それは他の人も犯している罪だ」、「自分は王だから、このことをしても許されるのだ」などとは言っていません。彼は、人の目にどう映るかではなく、神がどうご覧になるかを問題にしました。人に罪を宣告したり、赦したり、処罰したりするのは、最終的には神だからです。ダビデは祈りました。「私はあなたに ただあなたの前に罪ある者です。/私はあなたの目に 悪であることを行いました。」罪を認めるとは、このように、「私が、この罪を犯しました」と、神の前で認めることなのです。

 そして、神の前で、自分の罪をほんとうに認めることができたら、それは、かならず「祈り」となり、「罪の告白」となります。そして、そのように罪を言い表すとき、その罪は赦され、犯した不義からきよめられるのです。ヨハネ第一1:9に「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」とある通りです。ダビデも、こう言っています。「私は自分の罪をあなたに知らせ/自分の咎を隠しませんでした。/私は言いました。/『私の背きを主に告白しよう』と。/すると あなたは私の罪のとがめを/赦してくださいました。」(詩篇32:5)償いをしたから、自分を鍛錬したから、多くの善いことをしたらとは言っていません。赦しは人間の努力で勝ち取ることができるものではありません。赦しは神のものです。ただ神の恵み、あわれみだけが罪の赦しをもたらします。ですから、私たちにできることは、自分の罪を言い表して、神の恵み、あわれみを願い求めることなのです。

 ヨハネ第一1:9の言葉ですが、はじめてここを読んだとき、なぜここに「神は真実で正しい方ですから」と書いてあるのだろうと、私は不思議に思いました。「神が〝真実で正しい〟なら、人の罪を赦すどころか、人の罪を罰さなければならないのではないか」と考えたのです。そして、ヨハネの手紙第一を続けて読むうちに、その答えを見つけました。2:1-2にこうあります。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。」神が何の代価も求めないで罪を赦してもなお〝真実で正しい〟方であるのは、イエス・キリストが私たちの罪のための「宥めのささげ物」となって、私たちが支払うべき罪の代価をみな支払ってくださったからなのです。

 ですから、ここで言われている神の「真実」や「正しさ」は、「裁き主」として、徹底して正義を追求する「真実」や「正しさ」のことではなく、神が、イエス・キリストのゆえに、罪を赦すと約束された、その約束を守り通される「真実」や「正しさ」であることが分かります。

 誰しも、聖なる神の前に自分一人で出るとしたら、やはり恐れを感じるでしょう。しかし、私たちが自分の罪を言い表すために神の前に出るとき、じつは、一人ではないのです。私を弁護してくださるお方、イエス・キリストが一緒なのです。ヨハネ第一2:1の「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます」とは、なんと心強い言葉でしょう。イエスは私の罪のゆるしのために罪の代価をすべて支払われたばかりでなく、それを受け取るのを助けてくださるのです。

 三、罪からの回復

 このようにして、自分の罪を認め、言い表すとき、罪の赦しがやってきます。それはイエス・キリストによって備えられたもの、神の真実と正しさ、恵みとあわれみによって与えられるものです。「罪の赦し」とは、たんに、罪責感が取り除かれるという心理学的なもの、感情的なものではありません。たしかに、罪の赦しは、人に平安や喜びをもたらします。しかし、それだけではなく、人に光である神との交わりを取り戻させます。また、人を闇から引き出して、光の中を歩かせてくれます。それは、「罪の赦し」がイエス・キリストの十字架の血によって成り立っているからです。ヨハネ第一1:7にこう書かれている通りです。「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」

 罪の赦しは、神との交わりを回復します。遠いところにおられるように感じていた神が、自分の近くにいてくださることが分かるようになります。神の愛の言葉、励ましの言葉、癒やしの言葉を、自分に向けられたものとして受け止めることができるようになります。神との親しみが増すのです。

 そして、罪の赦しは、神の子どもたち相互の交わりをも回復します。もし、ある人が罪によって神との交わりを損なっていたら、それは、必ずといってよいほど、クリスチャンの互いの交わりに影響を与えます。また、互いの交わりを損なうようなことがあれば、それは、その人と神との交わりをも損ないます。ヨハネ第一2:9-10に「光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません」とある通りです。

 私たちが世の光として輝き続けるためには、光の中を歩んでいなければなりません。そして、光の中を歩き続けるためには、罪の赦しが必要です。罪を犯してしまうことがあったなら、すぐに罪を言い表し、赦しを求めましょう。ぐずぐずしていたら、たましいに痛みが増すだけです。〝真実で正しい〟神は、罪を赦し、神との交わりを、また、兄弟姉妹との交わりを回復してくださいます。罪によって光を曇らせることがあっても、再びそれを輝かせることができるようになります。罪の赦しと回復、それは恵みです。イエス・キリストがご自分の命をもって贖いとってくださった確かな恵み、私たちを造り変える力強い恵みです。信じて、この恵みを受け、光の中を、互いに励まし合って歩み続けましょう。

 (祈り)

 真実な主よ、あなたがイエス・キリストによって結んでくださった救いの契約に、どこまでも真実でいてくださることを感謝します。私たちが罪を犯してしまうことがあっても、それによってあなたから離れてしまうことなく、罪の赦しを求めて、あなたに立ち返ることができますよう、助けてください。日々に、あなたの赦しのうちに光の道を歩くことができますよう導いてください。私たちの贖い主イエス・キリストのお名前で祈ります。

8/18/2024