ゼカリヤ書1章 ゼカリヤ書は、神殿の再建によって開かれる新しい時代、来るべきメシアの時代について預言しています。目に見える神殿によって神の民の復興が回復するのではなく、キリストが来てくださることに、神の民の完全ないやしがあると言うのです。たしかに、キリストは、ご自分のからだを神殿と呼び、そのからだが十字架で裂かれた時、神殿の至聖所の幕も裂けました。キリストこそ、神の民の完成者です。 もどる

ゼカリヤ書2章 ゼカリヤ1〜6章には八つの幻がしるされています。1章には「全地を行き巡る神の使い」と「四つの角と四人の職人」の幻がありました。2章には「測り綱を持つ人」の幻があります。これは、神の守りを教えています。神の民を守るのは城壁ではなく、主ご自身であるとの宣言があります(4-5節)。私たちも「主は、あなたを守る方」(詩篇120:5)であることを覚えていましょう。 もどる

ゼカリヤ書3章 第四の幻は、「大祭司を訴えるサタン」の幻です。大祭司ヨシュアが「汚れた服」を着ているというのは、彼がバビロン生まれの帰還者で、異教の地の汚れを身に負っているとの非難を意味します。神の敵は、神と人との間にとりなし手が立つことを妨げようとします。また、私たちを失敗や敗北の中にとどめておこうとします。しかし、神は私たちの過去の汚れを消し去り、神の前に立つことができるようにしてくださるばかりか、私たちを、他の人々のためにとりなし祈る者にさえしてくださるのです。 もどる

ゼカリヤ書4章 ゼカリヤの見た第五の幻は、二本のオリーブの木から油を受けて輝く燭台でした。燭台はは神殿を指し、油は聖霊を意味します。神殿再建は神の力によることを表わしています。二本のオリーブの木は大祭司ヨシュアと総督ゼルバベルの二人の指導者のことで、神がこの二人を聖霊の器として立てたことを示しています。神のことよりも、自分たちの生活を優先させていた人々に、指導者たちを通してしめされている神のみこころ、導きに従えと、この章は語りかけています。 もどる

ゼカリヤ書5章 第六の幻は「空飛ぶ巻物」で、これは律法の書を表わしています。第七の幻の「エパ枡」に入っているひとりの女は「罪悪」を意味しています。この女が鉛の蓋で閉じ込められ、シヌアルの地(バビロン地方)に運ばれるのは、罪が取り除かれることを表わしています。律法の書、神のことばによって、罪を示されたなら、次には、神がその罪を解決してくださるお方であることを知る必要があるのです。 もどる

ゼカリヤ書6章 第八の幻は四台の戦車の幻です。四台の戦車は地の四方に出ていきますが、これは、神の全地に対する支配や統治を意味しています。イスラエルが神殿再建に取り組んでいる間、神が諸国に働いてその妨げを取り除いてくださるのです。神はイスラエルだけの神、宗教の分野だけの神ではありません。世界中のあらゆる国を、政治や経済にも働きかけ、万事を益にしてくださるお方なのです。 もどる

ゼカリヤ書7章 イスラエルの人々は第五の月の七日にネブカドネザルがエルサレムを滅ぼしたことを嘆いて、この月に断食をしてきましたが、エルサレムが再建されつつある時、断食を続けるべきかどうかということが、人々の間で議論になっていました。これに対して、神は、あたかも熱心に断食を守ってきたかのように人々は言っているが、それは形式的なものでなかったかと指摘しておられます。本当の断食は「正しいさばきを行い、互いに誠実を尽くし、あわれみ合え、やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげない」(9,10節)ことなのです。 もどる

ゼカリヤ書8章 エルサレムの広場に老人たちが座る(4節)と言うのは、人々が平和と健康を楽しむと言うことです。神殿工事はまだ着手されたばかりで、イスラエルの民はさまざまな困難の中にありました。ですから、こうした約束はにわかには信じがたいものでした。しかし主は「もしこれが、その日、この民の残りの者を目に不思議に見えても、わたしの目に不思議に見えるだろうか。」(6節)と言われます。主に不可能なことはありません。主の目に不思議に見えることは何もないのです。私たちも自分の目で物事を見るのでなく、主の目で物事を見るものでありたいものです。 もどる

ゼカリヤ書9章 9章から14章はゼカリヤ書の第二部に相当するもので、イスラエルの将来について預言しています。イスラエルの復興は一直線に完成に向かうものではありません。さまざまな苦難を経なければならないのですが、その苦難からの解放が約束されているのです。そして、その解放は、「ろばの子」に乗られた主、平和の王によってもたらされるのです(9節)。 もどる

ゼカリヤ書10章 ここには、救いの喜びは「ぶどう酒に酔ったような」もの(7節)と表現されています。「慎み」は大切な徳目ですが、それにこだわって、神に対してさえ、他人行儀なしらじらしい態度をとることがないでしょうか。主は、私たちが救いの喜びに酔うことを求めておられるのです。新約にも、「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども…栄光に満ちた喜びにおどっています。」(ぺテロ第一1:8)とあります。 もどる

ゼカリヤ書11章 偽りの牧者は「迷い出た者を尋ねず、散らされたものを捜さず、傷ついたものをいやさず、飢えているものに食べ物を与えない」(16節)のですが、まことの牧者は「失われた者を尋ね」(ルカ19:10)、「神の民を一つに集め」(ヨハネ10:16)、「罪の傷をいやし」(ペテロ第一2:24)、「豊かなもので養って」(ヨハネ10:9)くださるイエス・キリストです。このお方に従いましょう。 もどる

ゼカリヤ書12章 10〜14節には神の民の悔い改めが記されています。私たちは救いや栄誉にのみ目を留めやすいのですが、その背後に真剣な悔い改めがあることを忘れてはなりません。恵みの高嶺を歩んでいる人はへりくだった人であり、喜びと輝きを人々に与えている人は自分の内面にある暗いものと戦って克服した人です。人間的な生まれつきの明るい性格も役には立つが、神の求めたもうものはキリストの光に照らされた明るさです。悔い改めから生じた明るさです。 もどる

ゼカリヤ書13章 神の民の復興、再建は、霊的なきよめによらなければなりません。そしてそれは「罪をきよめる一つの泉」(1節)によるのです。この「泉」は、主イエスの十字架です。主の十字架によってきよめられた知性、感情、意志をもって成長して行くことを求めていきましょう。 もどる

ゼカリヤ書14章 ゼパニヤ書では、主の日は不信仰なものには暗黒の日でしかないとありましたが、ゼカリヤ者では、主の日は信仰者にとっては栄光の日であると言われています。エルサレムは再び敵に囲まれますが、神はその敵からエルサレムを救い出され、神の民に栄光を与えられます。そして、そのことによって、神がイスラエルの神だけでなく、全世界の主であることをお示しになるのです。 もどる