アモス書1章 アモスは南王国ユダの人でしたが、北王国イスラエルに遣わされて預言をしました。その時、イスラエルはヤロブアム(二世)の時代で、イスラエルは勢力を増し、領土を拡張し、表面的には繁栄していました。しかし、信仰的には堕落していたのです。アモスはそれに対して警告を発しました。「主はシオンから叫び、エルサレムから声を出される。」(2節)とありますが、真理を知っている者は、真理を失っている人々に呼びかける責任があるのです。 もどる

アモス書2章 アモスは一章で、ダマスコからはじまってアモンの罪を責めました。二章ではモアブとユダの罪を責めました。これには、イスラエルの人々は喜んで同意したことでしょう。しかし、アモスは最後にイスラエルの罪を責めました。しかもイスラエルの「三つのそむきの罪、四つのそむきの罪」を指摘します。「七つの罪」とは、罪の罪深さを表わしています。人の罪には気付いても、自分の罪には気付かないということがないよう、自らを戒めなければなりません。 もどる

アモス書3章 「ふたりの者は、仲がよくないのにいっしょに歩くだろうか。」という表現は、理由なしににはものごとを起こらないということを言ったものです。エルサレムにわざわいがおこるのは、神からの警告で、神の愛から出たものです。ところが豪奢な宮殿で安心しきっている貴族たちは、神のみわざを見ることもせず、聞こうともしないのです。主のことばに無頓着なものたちは、みことばが与える恵みを受けることができないのです。 もどる

アモス書4章 1節は貴族の夫人たちが、夫たちの悪に心を痛めるどころか、それを助長し、夫たち以上の悪を重ねていることを指摘しています。アハブの妻イゼベル、ヘロデの妻ヘロデヤたちの例が思い出されます。神はそれまで、ききんや水不足(6-8節)という警告を与えておられたのですが、「それでもあなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。」と言われているように、神に立ち返らなかったのです。 もどる

アモス書5章 イスラエル人は神を「万軍の主」と呼びました。「万軍」は天の万象をも意味します。神は、天体をお造りになったお方であるという意味です。であるのに、イスラエルは、万軍の主を捨てて、天体を神として拝んでいるのです(26節)。それでいて、彼らは「万軍の主が共におられる。」と主張しているのです。「万軍の主が共におられる。」と言うなら、「公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように流れさせる」ような生活で示す必要があるのです。 もどる

アモス書6章 危機が迫っているのに、安穏としている王族、貴族への非難がここにもあります。彼らは「ダビデのようだ」と言われていますが、それは、歌を作り、新しい楽器を考え出す才能においてだけで、ダビデのように国を憂えたからではありません。それに彼らの歌もただ風流を楽しむだけで、ダビデのように神を賛美するものではありませんでした。国の指導者たちがまず国を憂えなければならないのに、彼らは「ヨセフ(イスラエル)の破滅のことで悩まない」(6節)のです。 もどる

アモス書7章 アモス七〜九章にはアモスの見た幻が書かれています。最初の幻は「いなご」(1-3節)、次は「燃える火」(4-6節)、三番目は「重りなわをもっておられる主」(7-9節)です。重りなわは、柱などが垂直に立っているかどうかを調べるものです。しかし、この重りなわは建物の傾きではなく、イスラエルの霊的状態を調べるためのものでした。主は人の心、人の心の奥底にあるものまでもお調べになるお方です(箴言16:2,24:12)。人の量りでなく、神のはかりにかなうものでありたい。 もどる

アモス書8章 アモスの見た四番目の幻は「夏のくだもの」であった。これは一見穏やかな幻のようだが、「夏のくだもの」(カイツ)は、「終り」(ケーツ)と語呂合わせになっています。夏のくだものは収穫の時期が短かく、それを楽しむことできる期間も短かく、すぐに終りが来るというのです。イスラエルに臨む理由は、4-6節にあります。金持ちたちが穀物を独占し、それを法外な値段で売り、貧しい者たちを踏みにじったからです。また、神への礼拝が軽んじられ、神のことばを聞こうとしなかったのです。彼らには、神のことばのききんが臨むのです(11-12節)。 もどる

アモス書9章 アモスに与えられた第五の幻は「祭壇のかたわらに立っておられる主」(1節)です。主ご自身の幻は、主を慕う者にとっては最もすばらしいものですが、主に逆らう者には最も恐ろしいものです。「見よ、神である主の目が罪を犯した王国にむけられる。」(8節)と神は言われます。しかし、主のいつくしみの目は、イスラエルの中の正しい者、貧しい者、残りの者に向けられているのです。 もどる