士師記1章 「ユダは彼らを追い払わなかった」(19節)「ベニヤミン族は…エブス人を追い払わなかった」(21節)「マナセは…占領しなかった」(27節)などの言葉が続いています。最後まで完全に神の言葉に従い通さなかったことは、後にイスラエルを苦しめるようになりました。神に従うのに、中途半端でいると、その人の人生もまた中途半端なものになってしまいます。心したいものです。 もどる

士師記2章 この章は、士師記全体の要約になっています。主は、イスラエルが自らの罪のために苦しんでいるのに対してもあわれみをかけ、彼らを救うために「さばきつかさ」(士師)を起こされました。人々は、さばきつかさが生きているうちは神に従いましたが、さばきつかさが死ぬとまた罪に逆戻りしてしまいました。それでもなお、神は民をあわれんで、神に立ち返るよう、招き続けてくださいました。イスラエルの混乱の時期を描いた士師記ですが、ここには、神の愛の忍耐も描かれています。 もどる

士師記3章 最初のさばきつかさはオテニエル、次はエフデ、三人目がシャムガルでした。最初のさばきつかさオテニエルは「カレブの弟ケナズの子」で、カレブの娘アクサが彼に嫁いでいます。オテニエルはカレブの勇敢さを引継ぎ、イスラエルを救いました。さばきつかさたちの中に、細々とですが、信仰や勇気、民を愛する思いが引継がれていたのです。 もどる

士師記4章 四人目のさばきつかさは女預言者デボラでした。イスラエルにはモーセの姉ミリヤム以来、女預言者の伝統がありました。イザヤの妻もまた女預言者であり(イザヤ8:3)、フルダはヨシヤの宗教改革に活躍しました(列王記第二22:14)。婦人の働きがハウスキーピングに限定されていいわけはありません。サンデースクールや家庭集会で人びとと神のことばをわかちあうことができるはずです。そのためにも、婦人たちがもっと深く神のことばを学ぶことが必要です。 もどる

士師記5章 将軍シセラとの戦いでルベン、ダン、アシェルの氏族は彼らの領土にとどまって共に戦いませんでした(15−17節)。主の戦いは「民のうちの進んで身をささげる者たち」(9節)によってなしとげられます。神はいつの時代も、自ら進んで仕える人々を求め、その人たちを用いられます。士師の時代にも、すすんで身をささげる人々がいました。神の恵みが完全に明らかにされている現代は、もっと多くの人が進んで身をささげるべき時ではないでしょうか。 もどる

士師記6章 五番目のさばきつかさはギデオンです。神はギデオンに「勇士よ」(12節)と呼びかけましたが、これは彼には皮肉に聞こえたかもしれません。彼はミデヤン人を恐れて酒ぶねの中に隠れて小麦を打っていたからです。しかし、神はギデオンの中にある「勇士」としての素質を見抜いておられました。神は彼に「勇士よ」と呼びかけて彼を実際の勇士へと育てあげようとされたのです。神は神を信じる者を「神の子」と呼ばれますが、私たちはそう呼ばれるうちに神の子らしく変えられていくのです。人は神の呼びかけを聞き、それに答えることによって、成長するのです。 もどる

士師記7章 ギデオンは羊の毛で神を試しましたが、神もギデオンを試し、せっかく集まった三万二千人の兵をたった三百人に減らしてしまいました。たった三百人で「いなごのように大ぜい」の敵にあたるためには、神への信仰が必要でした。ギデオンは、その信仰によって大きな勝利をおさめることができました。本当の「勇士」とは信仰における「勇士」なのです。 もどる

士師記8章 ギデオンは金のエポデを作って、イスラエルに躓きを与えました(24-27)。エポデは祭司の装束のひとつで、神のみこころを問う時に用いられました。ギデオンは「しるし」に頼る傾向があったので、エポデを偶像化してしまったのでしょう。何かの選択をせまられ、将来のことを案じて、神のみこころを問う時、私たちは、正しい信仰に立っていても、とかく迷信的な考えに陥りやすく、みこころを求める祈りは難しいものです。だからこそ、偶像的、迷信的なものをしりぞける必要があるのです。 もどる

士師記9章 ギデオンは人びとから「王になってほしい」と言われた時、「主があなたがたを治められます」(8:23)と言ってそれを断りました。ところがギデオンの子アビメレクはギデオンの他の子たちを殺してシェケムで王となります。「アビメレク」というのはペリシテの王の名前で、この名に彼の野心や支配欲が表われています。神の民は神によって治められるので、神の立てなかった王はやがて滅びていきます。 もどる

士師記10章 第六番目のさばきつかさはトラ、第七番目のさばきつかさはヤイルです。神はイスラエルを救うためにさばきつかさを立てたのですが、彼らが死ぬとイスラエルは主から離れていきます。彼らには助けを求める祈りはあっても、悔い改めの祈りが欠けていたのです。苦難の日に神を呼び求めることは良いことです。しかし、その祈りには、私たちを苦難においやった私たちの罪を認め悔い改め、赦しときよめを願うことが伴わなくてはなりません。 もどる

士師記11章 第八番目のさばきつかさとなったのはエフタでした。彼は、熱心のあまりひとつの請願を立てるのですが、それが彼の娘の人生を大きく変えてしまいました。このことは、熱心だけで知識のないことがどんなに危険かを教えています。生半可な知識、受け売りだけの知識もまた危険で、それが私たちから愛や熱心を奪い取ることもあります。私たちが目指すのは「愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになる」ことです(ピリピ1:9)。愛と真理、熱心と知識の両方を持っていたいものです。 もどる

士師記12章 エフタの後、イブツァン、エロン、アブドンがそれぞれ九番目、十番目、十一番目のさばきつかさとなりました。イブツァンには三十人の息子と三十人の娘がいて、アブドンにも四十人の息子と三十人の孫がいました。これは、彼らが多くの側女を持ち、権勢を誇っていたことを表わします。しかし、本当のリーダは、世的な権勢を誇るのではなく、真のリーダーシップを発揮しながらも、神のしもべとして人々に仕えるものです。キリストもそのようなお方でした。真のリーダは常にキリストに倣うのです。 もどる

士師記13章 十二番目、最後のさばきつかさはサムソンでした。ここにはサムソンの誕生の次第がくわしく書かれています。サムソンは生まれる前から、神にささげられた人として選ばれていました。神を信じる者たちもまた、神の選びを受けています。サムソンの場合は、彼の選びが数々のしるしによって知らされましたが、私たちの選びは神のことばによって知らされています(エペソ1:4)。 もどる

士師記14章 神は「私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選」んでくださいましたが、それは私たちを「御前で聖く、傷のない者」にするためでした(エペソ1:4)。この神のみこころは旧約時代も同じでしたが、サムソンの人格と生活は、神のみこころにかなわないもの、神の選びにふさわしくないものでした。彼は神の力を表わすことはあっても、神のきよさを表わすことはありませんでした。サムソンは「御霊の賜物」は受けていても「御霊の実」を持っていなかったのです。 もどる

士師記15章 サムソンは同胞によってペリシテ人に引き渡され、たったひとりでペリシテ人にあたりました。サムソンには特別な力があり、ペリシテ人に立ち向かったのですが、彼は、イスラエルのリーダとしてイスラエルをまとめあげ、ペリシテ人に立ち向かわせることはできませんでした。個人としては能力のある人が、かならずしもグループの良いリーダであるとは限りません。私たちも、御霊の実をいただいて、キリストのからだ全体に仕える者となりましょう。 もどる

士師記16章 サムソンは自分の力の秘密をあかしたため、髮の毛をそられてしまいました。「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう」(20節)と言うのですが、サムソンは、神の力がすでに彼から去っているのに気づいていませんでした。彼は、彼の力が神からのものであることを忘れ、それが自分のものであるかのように思いこんでいたのです。神の力は、神との関係を通して与えられるものです。神との関係をないがしろにして、力だけに頼った人の悲劇がここに描かれています。 もどる

士師記17章 「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」(6節)とは、士師記の時代をみごとに言い表わした一文です。人々は、何が真理か、真実か、大切なものであるかということよりも、好きか嫌いか、愉快であるか、不愉快であるかなどによってものごとを判断します。しかし、神を信じるものは神のことばによって行動するのです。 もどる

士師記18章 ダン族は割り当て地を占領しなかったので、ユダ族に混じって生活していました。それで、新しい地を求めて約束の地の北限、ヘルモン山のふもとにまで行き、ライシュ(あるいはレシェム)を取って、そこをダンと名付けました。この時、ダン族はミカの家にあった彫像と祭司を連れていって、自分たちの宮を作りました。彼らはシロにあった神の宮から遠く離れただけでなく、神のことばからも遠く離れてしまいました。 もどる

士師記19章 ギブアの町の人々はエフライムから来たレビ人のそばめに暴行を加え、殺してしまいました。それは町ぐるみの犯罪でした。「赤信号みんなで渡ればこわくない」というような考え方は、人を容易に罪に導き、しかも町ぐるみ、国ぐるみの罪に導きます。集団の力は恐ろしいものです。それに巻き込まれないものを持っていたいものです。 もどる

士師記20章 ベニヤミン族はギブアで悪事を働いた者たちをかばって全イスラエルと戦うことになりました。戦いに敗れても六百人が最後まで抵抗しました。彼らは部族のメンツを保つこと以外に何も考えず、それが部族に存続の危機をもたらしました。本当の解決とは何かを見失うとつまらないことでみずからを滅ぼすことになります。神によって、争いを解決し、平和をつくり出す人々が必要とされています。 もどる

士師記21章 ベニヤミン族に娘を嫁がせないという誓いがあったため、彼らはヤベシュ・ギルアデを滅ぼして娘たちを奪ったり、シロの祭で娘たちをさらったりしました。そんなことをしなくても、誓いを解けば問題は解決したのです。イスラエルの他の部族もまたメンツで生きていました。神の御顔を求めるところに解決があるのであって、人の顔を立てることが第一になるところには、問題の解決はないのです。 もどる