民数記1章 「民数記」の名は、この章にある「人口調査」に由来しています。人口調査といっても「二十歳以上のもので、すべて軍務につくことのできる者たち」(3節)だけが数えられました。このことは、神が、神と共に働き、神と共に戦う者を求めておられるということを意味しています。レビ記では、神の民に聖なるものであること(to be)が求められましたが、民数記では神のために働くこと(to do)が求められています。私たちの「あり方」(being)が整えられたなら、それが「行動」(doing)に表わされることを神は望んでおられるのです。 もどる

民数記2章 レビ族は聖所の奉仕のために聖別され、かわりにヨセフ族がエフライムとマナセに分けられ、十二軍団ができあがりました。この十二の軍団は東にユダ、イッサカル、ゼブルン、南にルベン、シメオン、ガドが、西にエフライム、マナセ、ベニヤミン、北にダン、アセル、ナフタリが置かれました。整然とした配置ですが、大事なことは、その中心に聖所があったということです。主が中心となられる所に、団結が生まれ、団結が力となるのです。 もどる

民数記3章 初子はみな主のもので、レビ族はイスラエルの初子のかわりに神に仕えました。それで、イスラエルの一カ月以上の男子の初子の数が数えられました。その数は二万二千二百七十三人で、レビ人の一カ月以上の男子の数二万二千人よりも二百七十三人多かったので、人々はその人数分の贖いの代金を支払いました。「初子は主のもの」という原則がしっかりと守られています。 もどる

民数記4章 レビ人が聖所で働くことのできる期間は三十歳から五十歳の二十年間だけでした。人生で最も充実した時期を主にささげたのです。この時期は、私たちの人生の中で一番忙しい時期ですが、その時期に主に仕えることをしなければ、五十歳から以降、子育てを終えて自分の人生を生きようとする時に、そのための力や目標を得られないで終ってしまうかもしれません。人生の最も良い時期を主にささげ、私たちの人生を豊かなものにしましょう。 もどる

民数記5章 姦淫の罪を疑われた婦人に対する処置は、現代の私たちから見て、とても奇妙なものですが、この背後には、夫の権威が絶対であった古代社会で、妻が、夫のねたみだけでさばかれないようにとの配慮があったのでしょう。ここで大切なのは「のろいの水」そのものではなく、夫も妻も「主の前に立つ」(16節)ということです。私たちをさばくのは主であって(21節)、主の前では何も隠すことができないのです。主の前に立つ生活こそ、きよく、よろこびに満ちた生活です。 もどる

民数記6章 「ナジル人」というのは「ささげられた人」という意味があります。この人たちは誓願のために過ごす期間、ぶどう酒を断ち、髪を切らず、死体にふれませんでした。髪を切らないのは、それによって人の目に誓願の期間を過ごしていることを示すため、また、髪の毛が伸びていく様子を見て、誓願の期間が満ちていくのを実感するためだったのでしょう。また、その髪の毛は、期間が満ちた時切られ、神にささげられ、誓願の証拠となりました。今日、私たちが神への忠誠を示すために、何をささげるべきでしょうか。 もどる

民数記7章 最初の聖所であった幕屋ができあがった時、各部族がそれぞれささげものをささげたので、銀の皿、銀の鉢、金のひしゃく、全焼のいけにえ、罪のためのいけにえ、和解のためのいけにえはそれぞれ十二、あるいは十二の倍数となりました。聖書で「十二」は契約を表わす数で、イスラエルが神の民となるという「神との契約」を、また、各部族がおひとりの神を中心にひとつの国家をつくるという「兄弟の契約」を表わします。「新約」時代に生きる者たちも、キリストを信じた者たちは、キリストを救い主とする契約、キリストの教会の一員となる契約を、神との間にかわしているのです。 もどる

民数記8章 レビ人は祭司とは区別されており、祭司の補助者として働きました。祭司には任職の油がありますが、レビ人にはありません。祭司は神の直接の選びによりますが、レビ人は人々の代理として神に仕えました。レビ人が人々の代理として神に仕えたのは、神がすべての人を神への奉仕に招いておられることを表わしています。 もどる

民数記9章 イスラエルは雲の柱、火の柱に導かれて進みました。「主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。」(20、 23節)とある通りです。私たちの人生においても、主の時が来るまで置かれた場所にとどまっていなければならない時や、そこに居たくても先に進まなければならない時があります。自分の思いではなく、主の導きに従うことを学ぶことができたなら、私たちの人生は間違いのないものとなるでしょう。 もどる

民数記10章 二十歳以上の男子だけで六十万という大群衆が規律正しく行動することはたやすいことではありません。それでラッパが二本つくられ、前進、集合、戦いの合図に使われました。祭の日にもラッパが鳴らされ、ゆるし、祝 福 、喜 び が表現されました。私たちも主の日ごとの招集のラッパによって礼拝に集まり、前進のラッパを聞いて世に遣わされていきましょう。そして、最後の日によみがえりのラッパ(コリント第一15章)を聞くものとなりましょう。 もどる

民数記11章 イスラエルは、モーセを通して与えられた指示にしたがって幕屋をつくり、そこでの儀式を、忠実に守りました。しかし、儀式や戒律には忠実であっても、いざ実際の生活に困難がおこると、たちまち、神に対して不平を言いました。教会で敬虔そうにし、熱心に活動していても、家庭や職場で神に頼ることを忘れてしまうクリスチャンもこれに似ているかもしれません。信仰の本質は、戒律を落度無く守ることや犠牲的な奉仕の中にあるのではなく、神への信頼の中にあるのです。 もどる

民数記12章 モーセはミリヤムやアロンの弟であるのに、姉や兄よりも中心的な役割を果たしていました。彼らはそのことを快く思わず、モーセに対する神の選びに疑問をいだきました。それはねたみから出たもので、それは、神に喜ばれるものではありません。ミリヤムは女預言者(出エジプト15: 20)としての役割を、アロンは大祭司の役割を与えられていました。自分に与えられた役割を喜び、他の人に与えられた役割を尊ぶことを神は望んでおられます。 もどる

民数記13章 約束の地を偵察して帰ってきた人々は、約束の地の素晴らしさよりも、その地に住む人々が強く、とても彼らに立ち向かうことはできないと報告しました。彼らの報告で繰り返し使われているのは、「見る」という言葉です。「そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナクを"見た"。私たちは自分がいなごのように"見えた"し、彼にもそう"見えた"ことだろう。」(33節)不信仰の目でものごとを見ると、正しい判断ができないことの実例がここにあります。 もどる

民数記14章 ヨシュアとカレブは、約束の地で他の十人と同じものを見てきましたが、その判断は違っていました。ヨシュアとカレブは「彼らの守りは彼らから取り去られている。しかし、主が私たちとともにおられるのだ。」(9節)と言いました。ふたりは信仰の目でその地を見ました。神がその地の民をどう見ておられるかを、この二人は見ていたのです。私たちも正しく物事を見、判断する信仰を持ちましょう。 もどる

民数記15章 民数記1章で二十歳以上の男子の数が数えられました。この人たちは約束の地に入るはずでしたが、彼らは、神への反逆と不信仰の罪のために約束の地に入れないと宣告されました。エジプトから救われても、約束の地にはいたらなかったのです。神の救いは、私たちを不幸な状態「から」引き出すだけのものではなく、祝福 「の中に」導き入れるものです。不信仰のゆえに約束された祝福を失うことのないようにしましょう。 もどる

民数記16章 レビ人は祭司の補助者でしたが、コラ、ダタン、アビラムは補助者としての役割に不満をいだき、モーセの指導権、アロンの祭司職に挑戦しました。モーセやアロンはその権威を人からではなく、神から得ていましたから、モーセとアロンへの反抗は神への反抗となり、神ご自身がダタン、アビラム、コラを裁きました。アロンはこの時とりなしをして、彼こそ本当の祭司であることをあかししました。 もどる

民数記17章 イスラエルの十二の族長の杖とともにアロンの杖も聖所に置かれましたが、なんと、アロンの杖にだけアーモンドの芽が出、つぼみが出、花が咲き、実がみのりました。「杖」は権威を表わすもので、これは、神がアロンに祭司の権威を与えたことを目に見える形で表わすものとなりました。 もどる

民数記18章 反逆事件の後、祭司やレビ人についての規程がくりかえされます。祭司は聖所にささげられるものによって、レビ人はイスラエルがささげる十分の一の奉納物によって養われます。彼らはカナンに相続地を持たなかったからです。これは主ご自身が彼らの相続地であり(詩篇16:5)、主に仕える者は主ご自身によって養われるということを教えています。 もどる

民数記19章 きよめの水は、宿営の外で焼かれた赤色の雌牛の灰でつくられました。灰汁は布さらしに用いられ、布の汚れを取り去りました。その洗浄力が、霊的なきよめを表わすために用いられたのです。キリストは「まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。」(マラキ3:2)と預言されており、その十字架はエルサレムの城門の外に立てられ、キリストは私たちを罪からきよめるのため、そこで命をささげてくださいました。 もどる

民数記20章 モーセはイスラエルの人々への怒りに動かされて「岩に命じる」べきところを「杖で岩を二度打っ」て水を出しました。また、「さあ、聞け。この岩から"私たち"があなたがたのために水を出さなければならないのか。」とも言って、神が水を与えてくださることを示しませんでした。神の働き人は自分を見せるのではなく、いつでも神の御手が見えるように働かなくてはならないのです。 もどる

民数記21章 エドムはイスラエルとは兄弟国なので、イスラエルはエドムとの戦いを避けて進路を変えましたが、カナン人やエモリ人とは戦い、エモリ人の王、シホンとオグに勝ちました。この勝利はこれからの勝利のはじまりであり、イスラエルの勝利はエリコの町にも聞こえました(ヨシュア 2:10)。なのに、イスラエルはなおもつぶやき、神からのさばきを自らに招いています。モーセは神がイスラエルをさばくために送ったへびの形をつくってそれを木の上にかけました。人々は、そのへびに自分たちの罪を見て、何が神を怒らせているのかを思い知らされました。この青銅のへびはキリストを表わします。キリストは私たちのために、罪となり、さばきとなって、十字架の木にかけられたのです。 もどる

民数記22章 バラムは「預言者」と呼ばれてはいるものの、本物の預言者ではなく、偽預言者でした。偽預言者は本物の預言者に限りなく近いので、人々は惑わされるのです。全く違うものなら、見分けるのは簡単ですが、似ているものは見分けるのは難しいのです。聖書的な教会と異端的な教会も同じですが、多くの場合はその実をみて見分けることができます。きよめの実、愛の実は間違った教えの上には結ばれません。「似て非なるもの」を見分けることができるため、いつも本物を見つめ、その中で養われていましょう。 もどる

民数記23章 まじないに頼っていたバラムはイスラエルを見て「まことにヤコブのうちにまじないはなく、イスラエルのうちに占いはない。神のなされることは時に応じてヤコブに告げられ、イスラエルに告げられる。」(23節)と感嘆の声をあげています。バラムは「私は正しい人が死ぬように死に、私の終りが彼らと同じであるように。」(10節)と言っていますが、バラムの言葉は一時的なもので、彼は再びまじないにもどり、イスラエルに罪を犯させ、最後はイスラエルに滅ぼされてしまいます(民数記31:8)。偽りのない信仰は悔い改めと変化をともなうものです。 もどる

民数記24章 神は、バラムの人格や意図にかかわらず、彼の口からも祝福のことばを語らせました。「私たちの神はそののろいを祝福に変えられた。」(ネヘミヤ13:2)ということばの通りです。さらに、バラムはイスラエルがモアブに勝利することさえ預言します(17節)。この預言は二百四十年後のダビデによって、ダビデからさらに千年後のキリストによって成就しています。 もどる

民数記25章 モアブとミデヤンは娘たちを使ってイスラエルを誘惑しました。この事件は偶像の名前から「ペオルの事件」と呼ばれますが、その背後にバラムの策略があったので、「バラムの事件」とも言われました(民数記31:16)。イスラエルは戦闘力ではモアブ、ミデヤンに負けませんでしたが、誘惑には弱かったのです。外面では強く見えても、内面的にはもろいのが私たちです。高ぶることなく、自分の弱さを認め、神の助けと内面のきよさを求めていきましょう。 もどる

民数記26章 二度目の人口調査が行われました。最初の人口調査で数えられた二十歳以上の人々は約束の地に入れなかったため、人口調査をやり直す必要があったのです。また、これは、約束の地に入るための準備で、部族の大きさによって相続地の大きさを決めるためでもありました。神の約束を受け継ぐ者の数に入れられている人々はさいわいです。 もどる

民数記27章 イスラエルの指導権がモーセからヨシュアに委譲されました。モーセは自分が約束の地に入れないことに不満を述べず、イスラエルの民が羊飼いのない羊のようにならないようにと心を砕いています。イスラエルの民はモーセにさんざん重荷を負わせたのに、モーセは最後までイスラエルに仕え通しました。リーダシップの正しい用い方をモーセに学ぶことができます。 もどる

民数記28章 安息日や新月祭、三大祭はもちろんですが、日毎に朝夕一頭づつの子羊がささげられました。これは「常供の全焼のいけにえ」(6節)と呼ばれ、これは安息日、新月祭、三大祭にも止むことなくささげられました。これは日毎の祈りの大切さを教えています。特別な時の祈り、礼拝も良いでしょうが、それらは日毎の祈りの積み重ねによって祝福されるのです。これをしっかりと守り続けましょう。 もどる

民数記29章 贖いの祭の七日間に捧げられる雄牛は、最初一三頭で、毎日一頭ずつ減って七日目は七頭になります。七日間で合計七十頭となります。数が減っていくのは祭の期間が満ちていくのを覚えるためでしょう。八日目は雄牛は一頭となり、祭がしめくくられます。祭の日々を漫然と過ごすのでなく、日を追うごとに神からのものをしっかりと得ていくことが教えられています。 もどる

民数記30章 誓願や断食は信仰を高めます。しかし、それは時としてひとりよがりの苦行になったり、他の人への負担になったりします。それで、娘の場合は父が、妻の場合は夫が、それぞれの誓願を無効にすることができると定められました。新約にも、たとえ「祈りのため」であったとしても、夫婦が別れて暮らすのは、ふたりの合意なしにはしてはいけないと言われています(コリント第一7:5)。信仰的な行為も、それが身近な家族を煩わせるものにならないようにとの配慮が必要です。 もどる

民数記31章 古代の戦争では兵士たちは分捕物目当てに戦いました。しかし、イスラエルの兵士はそうであってはなりませんでした。分捕物はまず、きよめられ、兵士と会衆とで折半され、その中から主へのささげものがよりわけられなければなりませんでした。こうした規制がなければ、人々は限りなく欲望をふくらませ、他の国のものを手に入れるため、むやみに戦争をするようになるでしょう。 もどる

民数記32章 ルベン、ガドとマナセの半部族はヨルダン川の東側に住みました。しかし、川東の人々はこれから川を渡って西側に入る人々に知らん顔をしていることは許されませんでした。たとえ、川の両岸に住んでもイスラエルは一つであり、力を合わせなければなりません。それぞれ置かれた環境は違っても、キリストにある者たちは、主のためにひとつになって働くよう、神は願っておられます。 もどる

民数記33章 エジプトのラメセスからモアブの草原にいたるまでのイスラエルの旅程がしるされています。ピ・ハヒロテではエジプト軍の追跡に恐れ(出エジプト記14章)、マラでは水が苦いとつぶやき(出エジプト記15章)、シンの荒野では餓え死しそうだと言い(出エジプト記16章)、レフィディムでは渇きで死にそうだと訴え(出エジプト記32章)、シナイでは金の子牛を拝み(出エジプト記32章)、キブロテ・ハタアワでは「肉が食べたい」と言い、カデュでは約束の地を悪く言いふらし、コラの事件を引き起こしています。この旅程はイスラエルの不信仰の記録のようなものです。私たちの残す人生の旅程はどんなものでしょうか。 もどる

民数記34章 占領すべきカナンの土地の境界が示されています。いかにイスラエルが選ばれた民とはいえ、神の定めを越えてむやみに領土をひろげることは許されていません。「神はひとりの人からすべての国の人々を送り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界をお定めになりました。」(使徒17:26)とある通りです。イスラエルはある程度の領土を取るとそれに安住し、残した先住民に苦しめられるようになりましたが、取るべき領土を怠って取らないことも罪となります。 もどる

民数記35章 レビ人は相続の地を持たなかったので、各部族から四二の町がレビ人の町としてささげられました。そのうち六つは、過失で人をあやめた人々が復讐する者から逃れるための町となりました。のがれの町の規程は「神の宿る地」(34節)が血で汚されないためのものです。神が共にいてくださることを覚えることは、たんに律法を守ることよりも大切なものなのです。 もどる

民数記36章 民数記の最後の章には、男子がいない家族の相続地についての規程が書かれており、ツェロフハデの五人の娘たちはこの規程に従って、相続地が他の部族に移ることのないようにしました。このように相続地の問題がたびたび出て来るのは、イスラエルが約束の地に入る日が近づいたことを示しています。モーセは自分が約束の地に入れなくても、イスラエルに約束の地に入る最善の準備をさせています。ここにも、神の民に仕えた指導者の姿を見ることができます。 もどる